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ドライバー研究室 物思いに耽る猫科による猫問答 其の得治編

複雑怪奇な俗世に於いて、理性なき知性は恥性となる

☆徳治、則ち得治なり 2020/02/25

元は、梅太郎の頁で書き始めたものですが、思う様に纏められそうになく、もう纏めるのは諦めて、気長に思い付いた事を書き足して行く方針に切り替えました。という訳で、何時終わるのかも未定です(この頁の独立記念日は09/23)


☆理性から知性を観察してみる 2020/11/14

思想の世界は自由自在。何千年を隔てた時でも一瞬で行き来できるし、何億光年彼方に思いを馳せることもできる。
思想こそが知性であり、人類の人類たる所以である(猫さんだって物思いに耽っているかもしれないが)

思想とは、現実を俯瞰できてこそ価値が高まるが、その一方で、ややもすると現実離れしてしまう危険性もある。理想に近づけば近づく程に現実を振り切ってしまっている様に思える。後世に遺る思想とはそんなものなのかもしれない。理想の裏側には、どんな罠が隠れているのやら。

それに引き換え現実の俗世はと言えば、複雑怪奇且つ人も歩けば制約に当たる、何とも不自由なものだ。
そんな不自由な浮世に、自由自在な思想がそのまま通用すると勘違いしてしまえば、それが真にややこしい事になる。それが為に、恥ずかしい結果を生み出してしまったり、時には、痴性と嘲られる事になってしまったりとは、正直な歴史が証言している。しかし、そんな愚かな歴史を繰り返してしまうのが、また俗世の俗世たる所以なのかもしれないが。

思想そのものがそんなものだから、その思想が己の内から出たものであっても、余程注意してかからないと紐の切れた風船の様に漂ってしまう事になる。ところが、それが他人様からの借り物(単なる受け売り)であったなら、尚更、最初から紐など途中で切れているものと思った方が賢明である。

そもそも、何らかの思想が生み出されるその背景には、その人物なりその社会なりの時代背景がある筈で、それを考慮していないならば、その時点で後世に嗤われてしまうのは必定だ。

知性と鋏は使いよう。
不自由を嫌う知性を俗世に繋ぎとめられるのは、理性なのだと思う。
知性を知性で評価しても、現実離れの上塗りにならないとも限らない訳だし。

人が持っている理性の正体とは、倫理道徳?、信仰心?、教養?、それら全部纏めて?(これでは取り留めも無いな)、ここでは、理性の正体を探る事が目的では無いけれど、理性側から知性というものを観察するには、理性の正体にも少しずつ近づければより理解も深まるのではないか。そんな、現実的な猫問答です。


☆公論は神に向き合うが如く 2020/12/07

民主主義における法の支配の原理とは。

法や規則(掟)は、公論により決すると同時にそこには責任もある、よってその決定は守らなければならない。
特別な理屈など必要としない大原則であって、まさしく「万機公論に決すべし」そのものですね。

「そんなの当たり前ではないか」、そう思いますよね。であれば一安心、と言いたいところですが、現状は本当にそうなっていますか?、巷には得体の知れない謎ルールや規制が溢れていませんか。よもや、お上が決めたから、などとは・・・。

「よいか皆の者、これが民主主義という有難いものでござる、心して守る様に」
「ははー、有難く頂戴仕りまするー」
これでは、お上より下げ渡しのなんちゃって民主主義だ。

これは、筆者がよくネタにしている台詞ですが、表現が古臭いなら、「鶴の一声主義」ついに民主主義の文字も消えてしまいましたが、これならば、軽く周辺を見渡せばありふれた光景として理解して頂けるかと思います。

日本も時代を遡れば民主的であった、と思えるんですが、徳川の、徳川による、徳川家の為の幕藩体制時代もあったりして、随分とややこしい事になってしまった様です。

今を知りたければ、歴史という時の流れに沿って見てみる事が肝要であるというものですが、その前に、先ず対比としてお隣の中国の事情を大雑把にですが考えてみますると。


太古の中国では、神の声を直接聴こうとして占いが体系化し発達した。
支配者といえども占いによる神の声に従っており、また、その支配者も、百姓(ひゃくせい)に背を向けられてしまえば、易姓革命によってその地位を奪われてしまう事となる。
易姓革命は天命(神の意志?)によるものとされ、そこには血統の尊貴など存在せず、総ては神の意志という人為を超えた絶対的な存在に依ると見ることができる。

権力の存在理由として理屈的には筋が通っている、が、少々辻褄合わせの感が否めないでもない。
支配者の独裁の正当性と、片やそれを覆滅させる現実的手段の易姓革命の正当性の裏付けの為に、思想の後付けになった様に感じてしまうのですが、純粋な人達であったであろう古代人を、擦れた現代人の尺度で見てしまうのも危険なのかもしれませんが。

民主主義以外では、何らかの理屈が必要になってしまうでしょうね。思想というものは、現実に対して生み出されるものであって、思想が先というのもあるんでしょうかね。

それよりも興味深いのは、例え占いという神聖なものに依るとしても、明確に白黒を付けてしまうところがお国柄なのか、現代の一党独裁にもその片鱗が残っている様に思える。


和を以て貴しとなす。

これを以て日本を象徴する思想としてしまうのも、些か乱暴かもしれませんが、何分浅学にて他に適当なものも思いつかないので、当分はこれで行きます。

この「和」にも、広い意味がある様に思えますが、人々が和(調和)する状態として考えるなら、それを維持するには公論が必要であるのは時代に依らず同じ事でしょう。
ただ、古い時代には、和の中心には八百万の神々も含まれていたのではないか、と想像している。

人々は、神々の声に耳を傾けながら公論を重ね、その声なき声を聴き取ろうとしていた結果、「空気を読む」という特技を身に付けたのではないか。これは他愛のない想像ですが、そんな意味のない事を考えるのが楽しかったりするんですよね。

村社会も、そんな公論によって独自の掟が出来上がっていったのであろうが、ひと度掟が出来上がってしまえば、後は、先例に詳しい長老の鶴の一声によって、多くの物事が決定し秩序が維持されていた。そんな流れになるのが、むしろ自然なのではないかと思われます。これは、裏を返せば、公論で白黒を付けるのも難儀なもので、玉虫色で手を打つ事も多ければ、その分長老の出番も増えたんでしょうね。


公論主義。

現在の日本は民主主義とされていますが、意味が広くて抽象的でもあるので、大原則でもある公論に目を向けて公論主義として考えてみると、現状はだいぶ残念な事になっていますね。明治維新という、制度上の大変革期から急拵えで造り上げて来たんだから、実態が追い付かず無理が祟ってしまうのも致し方ない、と言ってしまえばそれまでで身も蓋もないんですが。

制度上は大変革があったとしても、その住人はそんなに急には変われないから、自分が育った村社会の感覚を、そのまま新しい社会に持ち込んでしまったものをムラ社会と呼び分けているんですが、村社会成立過程の公論に依る牽制作用が抜け落ちているから、特有の鶴の一声もやがてズルい一声へと姿を変えてしまっているのではないか、と考えているところです。そして、ふと気づけば、日本中がムラ社会の集合体になってしまった観がある。

現在は、明治維新時に引けを取らないぐらいの大変革期に差し掛かっているのではないか。国内的な事情よりも、社会も経済も国際化の波を止められない、という国外からの現実的な変革を要請されているのは間違いないでしょう。

変革期こそ公論を活発にしなければ、民主主義の存在理由そのものがなくなってしまう。とはいえ、筆者もそんなに得意な方ではないですが、今は、個人の意思表示を簡単にできるツールも揃っていますから、それを利用するところから始めてみよう、そう考えて筆者もこんな事をしている訳です。政治、と畏まらずとも、社会の事について意思表示していれば、結局はそれを解決するのが政治となる訳ですが、それは後から考える事にしています。勿論、選挙の札入れも言わずもがなの事です。


協調性の上での絶対性。

一神教であれば、神は万物の創造主であるという絶対性の思想があるが、現存する万物に神が宿るとする多神教では、神の絶対性も少々淡いものとなっていて、より現実的ともいえるのかな?、そもそも、八百万の神々から仏様まで共存している時点で、絶対性より協調性を重視する思想であるとしか言えませんよね。

日本は、協調的な民主主義が向いているんであろうと思います、が、民主主義とはこういうものだ、としてしまった時点で民主主義ではなくなってしまう。あくまでも公論によって進むべき道を決定するものである。しかし、意見を主張するのはこれもまた自由なので、その辺りは微妙であるが、まあ、そんな意見もあるなという程度で。

もしかすると、協調的な民主主義こそが理想的な民主主義なのかもしれない。しかし、人というものは、絶対的な価値観も必要とするものであり、それが無いから、公論に依らずズルい一声によって、和になったまま流されてしまったりするのではないだろうか。

今後、日本がどの様な社会を目指すとしても、現状は、協調(同調)的である事実に変わりはない。せめて、為政者が公論に向き合う際には、ズルい一声に流されずに、神に向き合うが如くの厳粛さを求めたい。


☆思想は盲目 2021/03/14

中国華やかなりし時代と言われる春秋戦国時代、併せて凡そ五百数十年。
春秋時代と詩的な名称を授かってはいるものの、各地で覇権争いに忙しく実態は少し控えめの戦国時代と言っても差支えないでしょう。そして、その覇権争いの序章はその前から既に始まっていたと見るのが自然かと思われる。

孫氏の兵法では「兵は詭道なり」と申すそうで、要するに「騙しあい化かしあい」を、それだけの長きに渡り延々と続けていれば、時に大悪人も登場すれば、その一方で大善人も現れるもので(表裏一体とも言えるが)、中でも負けん気の強い人間が叢り出たのが諸子百家。

日本にも多く伝わっていますが、中国の故事成語の九割方(失礼、八割だったか)はこの時代に生まれたものだそうで、これだけを見ても、あれだけの大国を統一するまでの道程の険しさを窺い知る事ができる。それを華やかの一言で片付けていいものやら、この時代の故事は好きなんですが、それでも時折気が重くなってくる。

諸子百家というくらいだから多様な思想が生まれた訳ですが、筆者などは、個々の完成した思想を掘り下げるよりも、この時代の全体像の中の点景として俯瞰する様な癖があって、その見方を一言で表せば大雑把です。あまり傾倒するのが苦手というか、何故か警戒してしまうんですね。

二千数百年も前の事ですから、社会的な背景として支配者と被支配者の関係性が強い時代(今も大して変わらない様な気もしますが)に生きた人達の思想であるという事も忘れてはならないですが、中でも儒教などは階級的な色合いが濃厚だったりする訳です。

そもそも、徳に依って治るという様な思想も、支配者に向けての訓戒であって現代であれば憲法の様なもので、そうでもないと暴君が量産されてしまうという現実から生まれたものだったと思うんですが、それだけでは世も治まりつかなかったのか、それを憂いた孔子が、庶民も含めた道徳的な規範として発展させたのが儒教の始まりの経緯かと想像しているところです。

一筋縄ではいかない浮世を治るには、お裁きも付いてきてしまうもので、孔子にとってもそこまでの意図はなかったにせよ、いつの間にやらお裁きも張り付いてしまったのかもしれませんが、人の世の事だからそれも必然だったんでしょう。

「人を道徳の様なもので裁いてもいいのでしょうか」
「人は不完全だからこそ定まった規範が必要なのです」
「しかし、それを扱うのは不完全なる人ですが」
「だからこそ、規範を徹底するのです」

この先は、永遠に答えの出ない猫問答になりそうだからこの辺で終わりにしときますが、道徳によって人を裁く事ができるとするなら、神が創った道徳により神の手で裁かれるなら異存もありませんが(筆者の場合は神を天に置き換えます)、所詮は不完全な人にその権能を渡してしまっていいのでしょうか。

儒教とは宗教なのか、これは猫問答迄にはならなそうですが面倒なのでどっちでもいいですが、例え神の教えであったとしても、その教えを信じて貰えなければその神さえも存在しえない訳で、だからこそ熱心に布教活動もするんでしょうけれど。

ところが、中国には中華思想という便利な思想があるからなのか、布教活動には熱心ではない様に見えます。まぁ、教えを乞いに来い(貢物を携えて)ぐらいのものですかね。実際、江戸時代に主に武士階級が熱心に取り組んだのも自主的ですからね。

この布教活動の方法というか、宗教にしろ儒教にしろ、それが広まって行く過程とか、その広め方とかを知っておくのが重要だと思う訳です。もっとも、昔のことですから想像でしかないですが。

日本では、戦国時代を経て徳川家が幕府が開いた後、荒廃してしまった人心を鎮め統治するには、儒教が都合が良かったとしか思えませんが、武士だって、最初から瞳をきらきらさせて「これからは支那伝来の儒教じゃ」。とかってなるんですかね。

人の良心を盾に取り、時に野蛮人であるかの如くさり気なく脅し、またある時は自尊心をそよそよと擽り、人の心の弱さにつけ込み巧みに操っていく。こんな事を書いているとまるで阿漕な商法みたいですが、擦れた現代人としてはこんなものかと思ってしまいますけど、心清らかな人はどんな想像をするんでしょうか。

何れにせよ、心より信じてもらうのか、それとも信じこませるのか。この違いを理解しておかないと、後々、道を誤る遠因となるのではないか、と思いますけどね。

何事であっても、誠意を尽くして心より信じてもらえるなら理想ですが、現実はなかなか厳しいもので、せめて理と利によって説かないと、人は理だけでは動かないし、また利のみで動かれてもやがて離反して行くのは火を見るよりも明らかでしょう。

「儒教は中国で生まれ日本で完成した」、この言説を中国の人が納得するとは思えないので、江戸時代生まれの明治人辺りが言い出したんではないかと想像するんですが、一応大政奉還によって一つの仕上げをしているから、それを知っている人でないと説得力に欠けるんだけれど、何にしろ、あまり褒められた言説ではないですね。例えば、何処かの国で「武士道は日本で生まれ我が国で完成した」、などと言われたら、まぁ不愉快ですわね。

これは余談でしたが、「何と生真面目な」というところは間違いないですね。頭が下がると同時に、過ぎるかなとも思ってしまいます。最初の頃は然程乗り気でもなかったのに、慣れてしまったら持前の真面目さで究めようとしていたのかもしれませんね。

現代日本では、徳治などと言ってはいないし殆ど聞いた事もないですが、真面目過ぎたその遺産は確実に染みついている様に思います。もっとも、仏教だの神道だの武士道だのが渾然一体となった独自のものになっているのかもしれませんが。

ただし、生真面目すぎたその反動が、今に続くあれやこれやのややこしさになっているのではないかと思いますが、かといって、今更どうにもなりませんけれども、日本のこれからを考える時には、そんな事も頭の片隅に入れておいた方がいいのではないか、と思っています。

俗世間には規範としての道徳は必要だ、というのは同意しますが、お裁きは公論によった法に任せましょ。時には心情的な部分も分からないでもないですが、そこは文明人としての矜りを持って。


中国激動の時代から二千数百年の秋を越えて、つい最近にも、世界を股に掛けた戦国の世が出現したのが、先の二度の大戦。
そんな激しい騒乱が起きると、やはりその反動として思想が出てくるんですね。

今回も色々ありますが、中でも身近なのがリベラル。日本では自由主義と訳される様ですが、自由主義もまた広範すぎて一括りにするのは無理ですけれど、大雑把に考えてみますると。

自由を掲げてしまうと、同じ重さの不自由も背負う事になってしまう。
相手の自由も尊重しなければ、自分の自由も蔑ろにされてしまうから致し方ないですね。
ただ、全体主義の様に望まぬ不自由を押し付けられてしまうのは避けられる、筈なんだけれど、絶対でもないですけどね。

そもそも、人というのは根源的に自由でありたいものですよね、何も今更ご高説賜らずとも、誰でもそう思っているんだと理解しています。
筆者も、物心がついた頃から自由主義者だった様な気がする。この日本社会では随分と葛藤する事も多かったから、個人の自由と社会の中での自由は別だ、ということぐらいは理解できる様になった。現実的な自由主義者とでもいいましょうか。

リベラルは宗教なのか、それこそどっちでもいいですけど、自称リベラルな人達のその広め方が気になっているところで、そのやり方は上記の儒教の時と大差ない様に思える。特に布教活動らしき事をするでもなく、それでいて世界標準のふりをしている、まるでミニ中華思想みたいだな。人のやる事など主義主張の衣装を脱ぎ捨ててしまえば見分けなどつかないものだ。

上記に加え、大きな声で捲し立て、相手が怯んだ隙に判子を押させる。これでは完全に悪徳商法だな。時代とともに変に知恵が付いた分さらに悪質になっている様にさえ思える。

正義感や使命感に溢れているのかもしれないが、その類は必ずと言っていいほど暴走する。何故暴走するのかはまた別の機会に回しますが。押しつけがましさは恩着せがましさでもある。これもまた後の機会にしますが、その押しつけがましさは全体主義と何が違うのか。筆者は、隠れ全体主義の似非リベラルと呼んでいたりする。

更に重大なる事は、自由主義は多分個人の自由へと流れて行くでしょう。欧米諸国は、元より個人主義の人達だから素養と耐性もそこそこあるかもしれないけれど、日本は、宗教も全く違えば、ましてや儒教を完成させてしまった様な国であるし、その儒教と自由主義は水と油の様なものなのに、単純に欧米諸国の真似をしようとしてるみたいだけど、それで大丈夫だと思っているんですかね。何かを手に入れるには、必ずその代償を支払わなければならない。

人間社会にとっては、秩序の維持こそが最重要課題であって、秩序がなければ経済活動もままならないからこそ、権力という必要悪も容認せざるをえないし、定まった規範も必要になったりする。

何故、何百年も何千年もの間、世界中の国々が抑制的な社会を維持してきたのか、これは単なる思想から来たものではなく、現実的な必然性による結果論にすぎないのではないか、と思っている。
今ある秩序も、空気の様に当たり前にあるもので且つ不変である、などと考えているなら、それは甚だ疑問だ。

みんなが坂の上の雲を目指して登っている様な時には、然程問題にならなかった事であっても、その坂の上の雲を背にして下っている時(今がそうだけど、何処まで下って行くのやら)には、人々も途端に問題意識を持つ、全く同じ事象であっても、その時々の社会情勢によっても結果は違ってくる。人の真価は坂を下っている時に表れる。

秩序が乱れた状態を、直ぐに暴動とか騒乱に結び付けるのも短絡的であって、特に日本などは、無関心による烏合の衆と化してしまうのかもしれない。これも秩序の乱れによる一つの結果ではないだろうか。そんな状態が長く続いた後に、何かの発火点によって騒乱状態へと移って行く様な気がする。

自由主義というのは、突き進んで行くと人類には制御不能なのではないか。これは、欧米諸国も例外ではなく、人類にとっての禁断の扉なのかもしれない。自由主義を自在に操れるのは、神だけでしょう。

だからと言って、自由主義を否定しているわけでなはく、結局は、全体主義的な人達の存在を否定せず(頑張ってくださいとも言いませんが)、両者で鬩ぎ合いを続けるしかないんでしょう。自由主義者には、かえってその適度な頃合いを見極めることなどできないから、対立する主義者との牽制によるしかない、と思う。これは、全体主義者にとっても逆も真なりですがね。


人生は無明長夜を行くが如し、思想というものは、そんな暗闇の中で足元を照らしてくれる提灯みたいなものですよ。しかし、その提灯はあらゆる道を照らしてくれるものではなく、照らせる道も決まっている(万能でもないし、負けん気強いから融通も利かないでしょう)、ちゃんと家紋も付いている。提灯が自動運転で何処かに連れて行ってくれるでもないし、結局は自分で進んで行くしかない。

自分(達)が進む道に合った提灯をその都度選ぶのが理性であって(道は無数に枝分かれしているから)、「はい、貴方はこの提灯ですね」などと、勝手に押し付けられるものでもなければ、「あの提灯かっこ良さげじゃのう」とか言って無造作に選んでいれば頓珍漢この上ない。

意味のない提灯を阿漕な方法で押し付けられるくらいなら、新たに作り直すか手探りで歩いた方がまだましだ。生傷は絶えないかもしれないが、五感が研ぎ澄まされて致命的な危機を避ける事ができるかもしれない。
提灯を先に選ぶとしたなら、その提灯に合わせた道を歩むしかないでしょうね。

足元を照らしている筈のその提灯、実はあさっての方を照らしているだけなのに、その明かりらしきものだけを見つめていて、肝心の足元では、眼前に迫りくる千尋の谷に気づけていないなら、それは盲目ですね。


☆敵は現にあり 2021/04/05

「故事を識る事は己の至らなさを知ることである」

人生に於いて「良き師」は得難いものですが、これが反面教師ともなれば価格崩壊も甚だしく、殆どバナナの叩き売り状態の如く巷に満ち溢れている。これを考えると、人間もやっぱり残念な生き物なんですかね。
もっとも、隣の芝生は青く見えても、他人の青臭さはやたらと目につくだけなのかもしれませんが。

「こんな事を真似してはいけませんよ」、「あんな大人にはってはいけません」、子供の頃からそんな事を言われて育っていれば無理からぬことですか。

反面教師というものも、余程気を付けていないと諸刃の剣となってしまうのは世の常で、中でも、反面教師を敵と見做してしまった場合には、その敵を叩き潰す事に心を奪われてしまい、そこに正義感や使命感が結び付いてしまうと暴走状態となってしまうのではないでしょうか。

たとえ反面教師であっても、己の至らなさを気づかせてくれ己を磨ける貴重な存在の筈なのに、反面という語感や心情もあってなのか、目的から逸脱してしまいやすいのかもしれませんね。

腹の奥底に敵愾心を蔵した正義感も、全く無益なものなのかと問われればそれも断言はできないですが、少なくとも、己を磨くことは難しいでしょう。


そんな反面教師界の中でも無敵の存在が、歴史上の人物や故事を敵としてしまった反面教師ではないだろうか。

既に結果が出ていて覆ることはない、しかも、相手からの反撃も無い、誰それ構わず勝手に敵と見做しては、高らかに勝利宣言できる。これ程完全に勝ち馬に乗れる勝負も珍しい。

斯様に不公正な勝負を仕掛けるとは、武士の風上にも置けぬ徒輩の所業(武士であればこう言うでしょう)と言わざるを得ない。これではやがて暴走してしまうのも必至と思われる。

こんな勝ち誇り方を元にした正義感には、正直引いてしまう。実は、筆者もある時ふと気づいて自戒する様にしたんですけどね。ただし、手放しで礼賛もしないおまけ付きで。

あまり調子に乗っていると、散々こき下ろしていた相手とあの世で鉢合わせしてしまった時に、奈落の底へ突き落とされてしまう、のかどうかそれは知りません。

歴史は敵に非ず、敵を欲するあらば現(うつつ)に探すものなのです。


つづくのですにゃ