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ドライバー研究室 吾輩は猫科である

雨にも負けて風にも負けて、夏の暑さにも冬の寒さにも、猫科的四方山話

世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。
吉田兼好著「徒然草」第七十三段より

重箱の隅とばかり仲良くしていれば、やがては虚言ばかりになってしまうでしょうよ。(梅太郎流意訳)
ブレずに信念を貫いている人が、実は真ん中に居たという事があっても、ありえない事でもありません。
真ん中ぼっちを恐れることなかれ。


梅太郎も特に大男ではありませんし、筋トレなどというのも縁遠い人種です(身長は5尺8寸、脂身で少々武装している程度です)
体格・筋力が勝っているなら、その分は飛ぶのが当たり前で、そんなものは何の自慢にもなりません。
同程度の体格の人以上に飛ばしてこそ(しかも、あたかも普通に)真の価値です。

研究の一環として、過去には最大飛距離も追及していました。
普通の練習場*1なら3Wでネット越えしてたんですが、体もしんどいので今ではそこまで振りません。
現在のテーマは、如何に体への負担を抑えて尚且つ飛ばすか。
最近では、あんた一体どこ向いて打ってんの?というぐらいのオープンスタンスで打っていますが(左膝への負荷低減のためです)それでも1Wならネット越せます。
基本さえしっかり押さえておけば、特に形に拘る必要はないなと実感しています。これは、応用の部類ですね。

*1 ここでは、普通の練習場とは古くからある練習場と定義します。概ね280±10ヤード相当の飛距離があればネットを越せると思います。田舎なのでそんなもんです。


☆こうすれば、もっと飛ぶ

なんとも魅惑的な言葉で、ついつい試してみたくなるのは人情です。
しかし、この手の話は何十年も前から巷に溢れていて、本当にその通りならもういい加減結果が出ている筈だと思うんですが、一向に気配を感じられない。という結果が既に出ているんですよね。

では、何故飛距離アップという結果に結び付かないんでしょう。
その手の話の殆どが、小手先の事にばかりご執心してしまっているからだ。
冷静に考えれば誰でも気付く事なんですが、それでも甘い罠に落ちてしまう。
人間とは惑うことばかりの生き物です。


☆努力は必ず報われる

それは分かるんですが、そうは言っても無駄な努力はしたくないものです。
何が無駄なのかは、後になってみないと分からなかったりするので、現実的には無駄な事もしてしまうんですが。
重箱の隅を突いてばかりで、思い通りにならないとなったら、手を変え品を変えたつもりが、重箱の隅を渡り歩いていただけだったら、それはもう論ずるまでもなく無駄な努力と言わざるをえませんね。


☆大名行列

下ーにー、下に
ボールが下の方にあるから、ついつい意識(構え)も下ーに行ってしまいがちですが、
そこは、大きく構えて大きく振るくらいの意識がないと、セットアップの時点で気持ちが負けてしまっている様に感じるんですが


☆猫科の辞書に根性論の文字はなし

猫科ですから、軽く見逃してください。
ストイックに自分の肉体を虐める必要もなく、ましてや命の危険と隣り合わせなんて状況になった事もないし、それでいて補助動力なしで出しうる最大飛距離のスポーツですから、まぁ、お手軽なもんです。
同時に、お手軽さ故の難しさもあるんですけど。
何はともあれ、私にはぴったりのスポーツです。
誰もが考える様な事を考えて、誰もがする様な事をしたところで、結果は団栗の背比べにしかならんでしょう。
コロンブスの卵的逆転の発想、こんな事ばっかり考えてます。
シンプルだけど一応道具使ってますから、使い方次第で結果も大きく変わってくるので、これで中々奥が深いものです。


☆天動説

日々何気なく生活していれば、どうしたって、地球を中心に太陽が回っている様に感じてしまいます。
ゴルフに限らず、「こうすれば好結果に繋がるんじゃないか」と感じる感覚にも、万人に共通したものがあるんだと思います。ただし、必ずしもそれが正しいとは限りません。

それはもう、あらゆるゴルファーからまるで呪文の如く聞こえてくる、とある理論をよく耳にするんですが、私には、スイング理論の天動説としか思えません。それが本当に正しいという論拠は、終ぞ耳にしたことはありませんから。
皆がそう言ってるから、自分もそう感じるから、ただそれだけの理由であったなら検証してみるべきだと思います。
巷説を鵜呑みにせず、俯瞰し検証してみる。これが当研究室の主旨です。


☆通信高座

えー、毎度ばかばかしい話にお付き合い頂きましてありがとうございます。 ?
通信講座みたいなもので、本当に効果あるの?と、心配される方もいらっしゃるかと思います。
そりゃそうですよねぇ、私も未知数なんですから。
ただ、何事も考え方で結果も大きく変わってくるので、先ずは考え方を整理する事が大事だと思うんです。

「やるべき事」があるなら、同時に「やってはいけない事」も存在します。
どっちも同じ事で、言い方を変えただけなんじゃないの?と感じてしまうかもしれませんが、
意識していないとそうならないなら、やるべき事。
ほっとくとそうなってしまうなら、やっては(やり過ぎては)いけない事。
これらを整理しないと、そう簡単には纏まらないと思いますよ。

こうすれば・・・、プロはこうなっている、もうやる事ばっかりで、良いとこ取りの寄せ集めに過ぎない、とか。
こうしなさい、こうなっては駄目、よくよく考えたら思いっきり矛盾してますけど、とか。
よくある話です。


☆地球温暖化?

ミニ氷河期到来か?という意見もありますよね。
太陽の磁場の活動が停滞する影響で、地球上の雲が増える→やがて気温が下がる。
ざっくり言えばこんな論理らしいです。
この地域は、この3年ぐらい?、夏といっても梅雨明け10日前後は暑いですが、それからは曇りがちでたまに思い出した様に暑くなる感じの夏が続いています。
ただ、冬も特別寒くはないんですが。
このまま温暖化が進行するのか、それとも、温暖化と見えていたのは蝋燭が消える前の灯に過ぎないのか、結論を出すのは時期尚早かなと思います。

1600年代にあったミニ氷河期(マウンダー極小期)には、ロンドンのテムズ川が凍り付いている風景画が存在しているようですが、その頃の日本はと言えば、一説では、東北以北が大豪雪で西日本は干ばつだったとか。
直接的な要因が「雲」に起因するだけに、地球の気候が一様に変化する訳でもなさそうです。
それこそ、雲を掴む様なお話ですね。

最近、ゴルフ場(ショートコース)とゴルフ練習場が廃業して、太陽光発電にした所があるんですが、発電効率はお日様次第だと思うんですが、実際の発電力はどのくらいなんでしょうね


☆根性論?

もはや語り尽くされている事ですが、疲れてからの練習が重要ですよね。
根性論の文字は無い猫科の筈なのに何言ってんの、とか思っちゃいます?、実は練習好きなんですよん。
イチロー程じゃ無いですけど、よく揶揄されてきましたから(今でも)
論理性などまるで感じないのに、最後は根性論で押し切ろうとする様な精神論的な根性論は大っ嫌いですけど。

人間の体の使い方にも色々とある様で、また研究してる人が居るんですよね。
爪先体重型、踵体重型。
外側の筋肉を使う型、内側の筋肉を使う型。
その他あるみたいですが、単純に一括りにはできない事だけは確実の様です。
自分がそれで上手くいったからといって、誰もがそれで上手くいくと思い込んでる様な論理はお断り申し上げます。

自分に合った体の使い方は自分にしか分からないですから、この辺は習うより慣れろで、数をこなすしか無いですよね。
何処に向かって進んで行くのか、全体像と大雑把な方針のアドバイスは有りだと思いますが、その手段は結局自分次第なんだと思います。


☆米ナイキ、ゴルフ用具から撤退

アディダスも傘下のテーラーメイドの売却先を探しているそうな。
ゴルフ人口の減少は予測されていた事ですが、現実となってきている事を感じます。

まぁ、ゴルフも観るのとやるのとでは大違いで、取り敢えず一度ボールを打ってみない事には分からないんじゃないかと思います。
まずテレビ観戦には不向きですわな。
フィールドが広すぎてスピード感が無い、相手との攻防も無い、致命的なのは肝心の打球がよく分からない、着地してから「オーッ」て言われても伝わらんでしょう。
かくいう私も、周りが始めていたから何となくだったし、何よりオジサン達がやってるイメージしか無かったですよ。
でも一番長く続いてるんですけどね。
自分でプレイしてみれば、圧倒的に広いフィールドに異次元の飛距離で飛んでいく打球のスケールの大きさは、他の球技では比較にならないし、その上、グリーン周りやグリーン上の繊細さまで全て揃ってるんですから、他に似たようなスポーツが見当たらないですけどね。

アメリカでも、ミレニアル世代への普及が思う様にいっていないそうで、ナイキもタイガーと運命を共にしてしまったようです。
タイガーの時代の様に、ゴルフ界が劇的に変わってしまう事(タイガーの常識を覆した活躍と、用具の劇的な進化が同時期に起きた)はそう簡単にあるとは思えないので、厳しい状況が続きそうです。


☆目的と手法 2017/02/14

当研究室にも、練習メニューあります。
目的は、打ち急がない(振り遅れない)ための練習。実際にボールも打ちます。
でも、特に練習法に拘る必要は無いな、とあらためて思い知らされました。
目的さえ見失わなければ、自分に合った練習法が一番ですね。

この練習法は今でも続けています。地味なんでちょっと怠け気味ですが。
だからという訳でも無いですが、少しづつ、少ーしづつ、いつの間にか早くなってしまうんですけどねぇ。
これは長年の悩みどころで、結局、ヘッドを重くして適度にスイングスピードを抑制してますけど。
これなんかは、それこそ人其々なんでしょう。


☆歴史小説に関する記事は引っ越しました 2017/07/09

新しくページを作って、そちらに纏めて引っ越しました。
これの親ページに「番外研究編 歴史小説の巻」という新しく作った見出しでリンクされています。
新しい見出しが表示されない場合は、ページをリロード(再読み込み)してみてください。

「私の名を呼ぶとき、私はもういない」これは、私は誰?というただの謎々です。
答えは、冒頭文の中にあります。隠れる事も無く堂々としてます。
情景を想った時に、この謎々が浮かんでしまっただけで、特に深い意味はありませんです。
因みに、この謎々は映画「LIFE IS BEAUTIFUL」に出てきます。

「みる」という事をするときには、なるべく相対的なものとしてみる習慣付けをしてきました。
単独のものとしてみてしまうと、絶対性として認識する様になってしまい、視野が狭くなってしまう原因なのかと思えます。
ところが、「運命」というものを、単独のものとしてみていたことに最近気づかされました。
運命と対比させるものが何なのか、気づいていなかっただけでもあるんですが。

「運命を想うぐらいなら、道だと想え」一気に視界が開けた想いです。
開けすぎて、自分の進む道ってどれ? まぁこんなオチもあるけど、適当に進んでいればそのうち自分の道になるかな?

言葉には魂がある。言葉によって、人生がたやすくなるとは言い難いですが、人生を楽しいものに変える力はありそうです。


☆歴史小説に関する記事は引っ越しました おまけ 2017/07/10

歴史小説に限らず、成功例と失敗例と両方あった方が、信憑性も信頼性も一段と高くなりますよね。
歴史小説の場合、両方ふんだんにあるのが好きなところです(やはり史実が基になってますからね)

他人の成功例をなぞれば自分も成功できる、とでも思っているのか、はたまた、
他人の失敗例をなじっていれば、あたかも自分は正当だと思ってもらえる、とでも思っているのか、
何れも、思考が偏っている事には違いないですから、あまり興味は覚えないですね。
白圭が、「人生はたやすいな」と言ったのは、人生最期の時に自分の一生を振り返っての言葉だから重みがあるだけで、まだ道半ばの人に成功体験を語られてもねぇ、これからも大どんでん返しになんか絶対遭わない、とは言い切れないでしょ。
早成すると零落するのも早い、と言うじゃありませんか。


☆歴史小説に関する記事は引っ越しました おかわり 2017/07/12

才谷 梅太郎と書けば、皆まで書くな、と歴史好きの方からの声が聞こえて来そうですから、詳細は割愛します。
勿論頂いてます、ちゃっかり。

風洪(後に改名して白圭)と才谷さん(脱藩していた時の変名の一つ)の経歴が似ていると感じる。
剣の達人でありながら剣を捨て、商人となり、黄河の治水事業をした、風洪。
剣の達人でありながら剣を捨て、海運業を始め、日本を洗濯すべく奔走した、才谷さん。
大雑把に都合の良いところだけ抜き出しているのかもしれませんが、それにしても似ていると思いませんか?

人生の転機といっても、道を転じた時から直ぐに大きな目標を持った訳でもなく、一つ目覚めた事から覚醒の連鎖で、あれよあれよという間に、振り返ってみたら想像もしていなかった道を歩んでいた、と思ったに違いありません。
一言で言えば、波乱万丈という便利な言葉で済んでしまうんですが、この場合ちょっと味気ないですね。

何かに目覚めた時って楽しいですよね、それが何度も何度も目覚めてたら、さぞかし楽しい人生だったろうな、と憧れます。
田横さんの後を追った人達も、楽しい人生を共に歩めたから、自ら殉じていく事に迷いは無かったに違いありません。

勿論、そんな先の見ない人生は嫌、とか、最初から大きな目標を立ててその道を突き進むべし、とか百人百様ですから、まがいもの梅ちゃんの妄想と軽く流してください。
梅太郎がゆく、また読みたくなった(まだ言ってる、もうばれてるって)


☆歴史小説に関する記事は引っ越しました 三杯目 2017/07/19

 要するに白は色、馬は形であり、このふたつをあわせた白馬は、形だけの馬とは当然ちがうわけで、白馬と馬がおなじものであるなら、馬は白馬であるといいかえてもよいはずなのに、それはありえない。したがって白馬は馬ではない、というものである。
宮城谷 昌光著「孟嘗君」 より

これは、田嬰(孟嘗君の父)の食客(説客)である貌弁先生が唱えた、「白馬非馬説」というものらしいです。
これの馬と白馬を、ちょっと置き換えてみると、

 要するに貌弁は名、人は形であり、このふたつをあわせた貌弁という人は、形だけの人とは当然ちがうわけで、貌弁と人がおなじものであるなら、人は貌弁であるといいかえてもよいはずなのに、それはありえない。したがって貌弁は人ではない。

必殺、詭弁返し。
何やら楽しげな学問でおじゃります。

梅ちゃんにも新しい学説があるんだにゃ、「にゃんこ、丑三つ時の虹説」
にゃんこは、丑三つ時の虹を渡って宇宙からやって来た。
丑三つ時はにゃんこの天下ですにゃ。中でも二時八分は最高に盛り上がるにゃ。
梅ちゃんも食客になりたい。


☆いつまで一本調子なんですか 2017/07/20

先日、ネットのニュースで見つけた記事を、ななちゃんのページで引用したんですが、ここでは元記事をリンクはしませんが、
>ダル、米球宴で日本球界へ警鐘鳴らす 「全部のレベルで指導者が変わること」
引用した文章は上記の通りです。
概要は、ダルビッシュに言わせると、指導者が20年前から全然変わってない。と、こんな感じですかね。
あの時、こっちのページにも書くって宣言してたので(長くなってまーす)

これは、ほぼ全ての事に当てはまると思うんですが、草創期、成長期、安定期、変革期とざっくり分けたとして、その時々において、やるべき事もやり方も、適時変わるもんでしょう。
大概、草創期はがむしゃらに突き進むし、成長期に入れば広げていくための方策だってあるんだから、臨機応変に対応しなければ続かない、というのは、歴史も証明しています。

あの織田信長だって、ずっと力攻めしていた訳でもなく、美濃のマムシとだって手を組むし、面従腹背と知りながらも松永久秀(だったか?)だって味方に引き入れるし、せっかく硬軟織り交ぜて対応していたのに、理屈なんか一切通じない一向宗徒にブチ切れてしまったのが、道を誤ったところというか、不運だったというべきか。
そういえば、致命的に理屈が通じない、現在進行形で近隣にありますね。どうすりゃ良いのよー、、、梅ちゃんには分かんない。
歴史小説の中では(歴史研究家ではないので)、力攻め一辺倒に終始していると、まず滅びてます。

例えがいきなり飛んでますけど、
がむしゃらに突き進む時期も必要、それを否定する気は毛頭無いんですが、そんな事をいつまでもダラダラ続けているのも、ちょっと知恵がないかな、と思うわけです。
スキルアップしたなら、やる事(練習内容)だってそれなりのレベルアップが必要でしょう。
右も左も分からない新入社員に工夫しろと言っても限度があるし、かといって、いつまでたってもちっとも工夫しようとする意志が無いとしたら、それはどういう事なんだろう。あたかも、新入社員のまま成長していない様な指導者って、理解に苦しみます。

指導者(リーダー)の頭の中に成功体験が刷り込まれていると、一本調子になりがちなんじゃ無いかなー、と思うわけです。全てがそうだとは言いませんけど。
さらに問題なのは、偶に上手くはまっちゃう人だって、そりゃぁいるわけですよ。でもその例をもって、また成功体験として刷り込むのは、大きな勘違いと言わざるをえませんね。失敗例という分母を無視してはいけません。

これは、指導を受ける(付いていく)側にも、意識改革が必要でしょう。
指導者の背景の権威に服従しているだけで、やらされている感を抱いていたら、結局自分の成長に繋がらないだけで、損をするのは自分ですからね。

最初は集中的に取り組んで、その時に何らかの光を見いだせれば、楽しくてしょうがないからほっといても練習するし、光が見えないままだと、先が苦行になりかねないですから、そんな場合は、大胆に方向転換してみるのも必要かもしれませんね。

梅ちゃんの例で恐縮ですが、牛乳飲むとき肘を張るんです。だからなのかフライングエルボーですよ。その方が打ちやすい。
多分、前述の体の使い方に起因してると思うんですが、「トップの形は出前持ちの様に」だから何?
全ての動きが連動するように調整すれば良いだけだし、それを目的として練習すれば良いんじゃないんですか?
物事を静止状態で考えてはいけない、と強く言いたい。すべからく流動し、連動するもんです。
コ マ オ ク リ 静止状態としか捉えていない見た目のカタチって、そんなに重要なのかな?
自分の能力を最大限に引き出す事が目的じゃないんですか。

カタチとは、作るものではなく、結果として出来上がっていくもの。
自分が理想と思い描いただけのカタチを押し付けるのは、力攻めと何ら変わりません。


☆そのボール止まってるんですよね 2017/08/10

ゴルフをしない人は、さぞかし首を捻っている事と思います。
そう言われてしまうと、身も蓋も無いんですが。付け加えておくと、好きなタイミングで打っても良いんですよ(どや顔)
一見簡単そうな事が実は難しい、なんて事は世の常ですから、そういう事にしておいてくだしゃれ。
何故、かくも思い通りにならないのか。先ずはゴルフというものを分析してみましょうか。勿論、梅ちゃん流です。

「タメ」をつくれ、とよく聞きますが、実はこのタメの定義からして曖昧なんですが、たぶん、ダウンスイングの時にクラブヘッドが遅れて降りてきて、インパクトの直前でリリースする事によってヘッドを走らせる。って事かしらん。
いやチョット待て、普通に振れば、タメらしきものなんて勝手に出来ちゃうですにゃん。しかも、飛ばそうとすればする程。
この状態を一言であらわせば、
「インパクトはタイミング勝負」じゃー、恐れ入ったかー。

本来、一番大事なのは、
「インパクトでは、セットアップした時と近い状態に戻してあげる」事と、併せてインパクト前後のヘッドの軌道も重要なんです。
これも一言であらわせば、
「正しいインパクト」これに尽きます。

インパクトを目前にして急にリリースしようとしても、シャフトだって結構な長さがあるし、そんな簡単にはタイミングも合ってくれないですから、さすれば、今度は「左サイドに壁を作れ」要するに体にブレーキをかけて、それでヘッドを走らそうというか帳尻を合わせようとの算段ですよ。
そうは言っても、体を止めきれずに流れて、ヘッドを振り遅れている人が殆どだとお見受けします。
できない事も無いですけど、当たるも八卦当たらぬも八卦、の占いゴルフになってしまう訳です。
何の気負いもなく軽く振った時に妙に飛んだりするのも、ヘッドの遅れが少ない分タイミングが合いやすいだけですね。

タメと壁、略してTKB 48、こんな打ち方ができる人は、
天才、飛び抜けた練習量を積み重ねた人、如何なる事があっても自分のスイングを崩さない不動の心の持ち主。
まぁ、こんなところでしょう。
よって、練習量の少ない素人にはハードルが高い打ち方だと思います。
ただし、タメらしきものは勝手に出来てしまうもので、そんな場合には、必然的にTKBにせざるを得ないという事もあって、殆どの人がこれに当てはまるのかと思います。

TKBは、その昔アイアンの重心が高いものが多かった頃、おまけにスモールボールで地上にある時重心位置が低い、という二重苦だった頃には、こうでもしないと打球を上げられなかったのかなぁと思われますが、その名残りなんでしょうかね。そんな組み合わせでボールを打った事無いですからあくまでも想像ですが。
それにしても、ずいぶんと錆びついたようなお話ですね。

今は、チタン、カーボン、略してTCBの時代ですよ。
アイアンだって、TKBなんかしなくても普通に打球上げられるでござりまする。
タメを作れ、無視してます、どうせヘッドは遅れてくるんだから。
むしろ早めにリリースして、インパクトの準備を事前に済ませておいた方が、打球の安定度が高いし、何よりタイミング依存が少ない分、スイングの自由度も高いと思います。
特に非力な人は、なるべく大きなスイングアーク、略してBSA、を目指す事をお勧めします。
BSAも、そんなに簡単に覚えられるものでも無いですが、コツさえ掴んでしまえば、後は、スイングが崩れない範囲で強振できる様になるので、平均飛距離も伸びると思います。これが一番のシャンプー、、失礼、メリット。
BSAは、バリエーションも多ければ発見も多いですから、慣れてくれば、それを探しだす楽しみもあるってものです。
ただし、TKBとはスイングが根本的に違うので、TKBもどきでリリースだけ早くすると、目立った効果も無く骨折り損のくたびれ儲けになりかねませんから、これだけは忘れないでください。
TKBへの未練を綺麗さっぱり捨てて、発想を根本から変える事が重要です。
もっとも、大きなスイングアークを目指していれば、自然にTKBではなくなると思いますけどね。

男は黙ってTKB、失礼、男ばかりじゃ無かったですね。
ゴルフは黙ってTKB、という信念をお持ちの方はこの限りではありません。

もう一つ、スイング中に気をつけたい事。
インパクトの瞬間の写真、首に筋なんか立ってたりして、よくカレンダーなんかで見かけますが。
インパクトの瞬間のイメージは持たない方が良いと思いますね。
そのイメージによって、スイングをインパクトで終わらせてしまう可能性があって、尚且つ、ヘッドが振り遅れていると、実際にインパクトする前にスイングを止めてしまう事になりかねません。後はただの惰性。
あくまでも、インパクトの前後が重要なんです。
ちょっと不安なんですが、スイング中に固定したイメージを持たない方が結果としては良いんですが、これは人それぞれかもしれません。腕とクラブヘッドが通り過ぎていくのを、なんとなく見てるだけですね。


☆タメられるものなら 2017/08/22

そりゃあ貯めたいです、お か ね。誰が何と言おうと嫌いになれないですから、貯金。ストレスは溜めたくないですけどね。
どうせ出来ちゃうのに、わざわざタメをつくれ、などと言うのは、「タメをつくる」の語感に「貯める」と共通するものを無意識のうちに感じてしまうんでしょうか。いっっぱいタメれば、何か凄く良いことがありそうだ、とか。
タメ銀行でもあれば良いんですが、残念ながら直ぐに使いきらないと消えちゃうんですね。
また、その使い方がはるかに難しいときてるのに、こっちの方はうっかり忘れがちだったりするんですけど。
まあ、貯めるのも嫌いじゃないですから、ため繋がりで、少しだけ分析してみましょうか。

長所
・クラブヘッドを上から鋭角に入れやすい。バックスピンをいっぱいかけたければ良い方法かな。
・ショートアイアンぐらいまでなら打ちやすいですかね。ミドルは微妙かな。

短所
・前述の通り、インパクトのタイミングが難しい。ヘッドの振り遅れがおきやすい(特にシャフトが長いクラブ)

どっちつかず
・ヘッドが走って、ヘッドスピードが速くなりそう。物理的に未検証ですけど、たぶん錯覚ですね。
一時的に腕を減速してるので、相対的に速くなった、と感じてしまうだけだと思われます。
大きなスイングアークの場合とを、感覚的なもので比較しても意味は無いですから、本当に知りたければヘッドスピードを計測してみるのが一番です。必ずしも、全ての人が同じ結果になる訳では無いですからね。
ただし、インパクトのタイミングが合わないと無意味ですので、やっぱり、実際の打球で比較するしか無いと思いますが。
平均飛距離で比較しないと、占いゴルフになっても、まぁ、ねー。

タメも、その昔散々やったので、もうごちそうさまです。偶に不調になった時にあれやこれやしてみる時でも、まかり間違ってもやることはありません。左膝からイエローカード出ちゃうし。
自分でやらないのに分析できるのかー、と言われそうですが、ごもっとも、遠い昔の記憶です、はい。
因みに、アイアンは分類上、ロング(1・2・3)、ミドル(4・5・6)、ショート(7・8・9)ですよね。まぁご随意に。
親ページにアイアンの画像(ダンロップとミズノ)を載せてますが、あれはどちらも2鉄です。ダンロップの方は1鉄から揃ってます。もの好きでしょ?


☆民主主義 2017/08/24

とは名ばかりのムラ社会の集合体。
お江戸の時代だってそぉんなに遠い昔でも無いし、まぁ仕方ないですかね。そんなに急には変われませんですな。
日本は成熟社会だ。何をおっしゃってくださいます事やら、これだけ年がら年中すったもんだしてるのに。
貴方は、この社会に窮屈さを感じていますか?それとも、特に不自由も無く過ごせていますか?

もし、窮屈さや理不尽さを感じているなら、実力勝負のゴルフを始めましょう。
広く静かなコースで、青空に吸い込まれる様に飛んでいく打球の爽快感は、日常の喧騒を忘れさせてくれます。
グリーンに近づく程、繊細さも必要になっていきますが、狙い通りにカップに吸い込まれた時の喜びもひとしおです。
練習場で、他者の追随を許さぬ程の打球を打てたとしても、どや顔は心の中だけに留めておいた方が無難だと思います。
最初から思い通りにはならないものですが、生涯にわたって楽しめると思います。

もし、何の不自由も無く日常生活を送れているなら、それは重症です。感覚が麻痺してしまっているかもしれません。
今すぐゴルフを始めてください。そして、打ちのめされてください。
途轍もないビッグボール(地球)をザックリ打ってしまうのは当たり前。
やっとこさ、小さな球を打てる様になったとしても、飛んでいく先は球に聞いてくれー、別に無責任な人間になってしまった訳で無い事は、周りの人も分かっていますから、心配無用です。
なんとも思い通りにならない、現実の厳しさに目覚めることができるでしょう。

ゴルフ場は概ね本当のムラにありますが、ムラの良い面も感じてみてください。
そして、また窮屈ですったもんだな日常に戻らなければなりませんが、それは、この社会にまだ成長の余地があるという事です。
他国の真似だけではなく、日本らしく進化していけるという希望も残されてはいるんですから、そんなに悲観する事もありません。
あまり気分の良い理由でも無いですが、夢や希望を持てないよりは、まだましだとは思いませんか。ゴルフも社会も。


☆歴史小説に関する記事は引っ越しました 政権後退 2017/09/04

政治腐敗の防止策としてであれば、政権交替も結構だと思いますよ、他に適当な方法も見つかりそうにないですから。
そう思ってはいたが、なんだか昨今の諸外国での政権交替の例を見ていると、あまりにも政策転換が激しい様に感じる。
国家間の合意事項であっても、政権が交替したら身勝手に反故にしようとしてみたり、大きな政策転換も厭わずの様な思考というのも、その姿勢のあり方は、結局は権力を私していることと、何ら変わらないとしか言いようがない。
この状況は、腐敗と何が違うのだろうか。腐敗が起きるのは権力の私物化から、というか、私物化そのものだと思える。

権力を手中に収めたい側からすれば、自分達のやりたい様にやるのは当たり前なのかもしれないが、それによって振り回される国民のことなどは、眼中に無いのかと思えてしまう。
選挙によって付託を受けたとするなら、それは拡大解釈であり、ご都合主義である。
腐敗は不可であるが、交替という名の私物化は可、とするなら政治家の見識と資質を疑う。

近年の日本でも、野党からは政権交替というお題目ばかり先行して聞こえてくるが、政権交替のためなら理念の全く違う政党であってもお構いなし、という様な姿勢を見せつけられると、権力を手に入れる為に何でもするなら、権力を手に入れたら何をしでかすか分からない、と疑われても致し方あるまい。
少数派の意見を尊重しろ、と言っておきながら、政権を奪取したとたんにやりたい放題だったとしたら、何をかいわんやである。

政権交替さえすれば、無条件に理想の政治が叶うと思っているかの様な幻想に、いまだに憑りつかれているのだろうか。

二大政党制を目指すなら、もっと現実的な議論を厳密に先行させて欲しいものである。
政権が交替する度にちゃぶ台返しを繰り返していたら、それこそ、交替する毎に政治が後退してしまう様な予感が拭いきれない。
やがて、始めに政権交替ありきとなり、本来の目的を見失ってしまわないかと危惧される。
二大政党制であっても、長年続けば問題が出てくる筈である。他国の例を見ながら、事前に予見して対応策を施すべきである。
出たとこ勝負で、後から対症療法を繰り返すばかりでは、何とも情けない。
もっと、もっと、真摯に政治に向き合う姿勢を持ち、その姿を国民に見せない限り、安定した二大政党制は夢のまた夢で終わってしまうしかないであろう、としか言い様がない。

民主党が政権を取った時の失敗も、二大政党制の速成が成る、と勘違いしていたのかと想像する。
政権運営の初心者でありながらそんな妄想をしていたなら、ただ単に見遠しの甘さと、ひいては、真摯さの欠如を感じてしまうのである。
この日本では初めての事なのであるから、最低でも2〜3往復ぐらいは、初心者であることを肝に銘じて、ちゃぶ台の脚はボルトで固定しておくぐらいの、謙虚な姿勢で臨むのは当然の責務であると考えます。

摧杼も、政権の速成を狙い、粛清という究極の手段を選んだが、結局は破滅したのである。
手段の如何を問わず、速成などというものを狙うのは、賢い人間のする事とは思えないのである。

二大政党制という大枠だって、所詮は他国の物真似に過ぎない。その事自体を否定するものでも無いが、その中身については、もっと自問自答するべきである。
自問自答は ただ なんだじょ。自問自答ぐらいのことで公費を使っちゃ、駄目だじょ。

為政者は民衆を支配するが、死後民衆に支配される。
こう言われたのは、過去の事。今では、その職にある時からフルボッコにされかねない。
時代は少しずつではあっても変化しているんです。
ただし、フルボッコにする側も、何でもかんでも脊髄反射の如くに騒ぎ立てるのは、お里が知れてしまいます。


☆歴史小説に関する記事は引っ越しました 社稷の庶民 2017/09/05

右でもなく、左でもなく、ド真っ直ぐですよ、性格が(方向は???)、打球が(小自慢)、にゃんちって。
冗談はさておき、政治的な信条に、自慢できるほどの方向性なんかありませんのです。
今ある現実も、長ーい時を経てこうなってるんだから受け入れるしか無いし、かといって、現状維持というのにも抵抗はあるし、少しずつでも進化していければ、と思っています。

道理、が気になる悪癖を持っているみたいで、道理とか物理は、本来従うしか無いもの、と思うわけです。
まぁ、この世に道理なんかあったもんじゃ無い、これも厳しい現実なのかもしれませんけど。

ゴルフだって、基本は物理、そこに感性を足して完成。にゃんて。
物理という明快な答えがあるにも関わらず、棒っきれを振り回すと、これがまた、ありゃりゃ、って感じになってしまうんですが。

社会(政治)という、人々の思惑が複雑に入り混じる得体のしれないものなんかに、果たして正解があるのかさえも不明ですが、最後の判断基準は、道理、なのかと思うわけです。
で、明らかに道理から外れてる様なことがあると、それは違うでしょうーと思うのです。
社稷の庶民ですから、何の力も無いんですけどね。残念。

晏嬰さんでもいれば良いんですがねー。
ところで、晏嬰さんの自分の役職に対して徹底する姿勢というのも、アメリカ人ならどの様に評価するんでしょうか。
日本社会では、あまりにもド真っ直ぐすぎて浮きまくりそうです。
空気だの、顔色だの、問答無用で切り捨てられそうですからね。
好きな上司ランキングなら、結構良い線行きそうですけど。


☆無事之名馬、その御者も名人也 2017/10/03

競走馬にも怪我はつき物の様ですが、馬の僅かな異変に気付き、怪我を未然に防ぐ事ができれば、その御者(騎手、調教師)も名人と称されてもいいのかなと思います。なので、その御者も名人也、は梅ちゃんが勝ってにくっ付けたものです。
それは、企業にしろ個人の人生にしろ、終生順風満帆なんて事は殆ど無いんですが、逆風が吹き始めた時にこそ臨機応変な対応力が求められるのと同じですね。

ゴルフというスポーツも、長く楽しめる一方で、如何せん体への負荷バランスが偏ってるきらいがあって、長い間には多少の怪我も仕方ないところではあるんですが、異変を感じ始めたにも拘わらず、特に目立った対処もせずに致命的な怪我に発展してしまったら、それは如何なものかと思うんです。
タイガーも、膝と腰併せて8回手術していて、今も腰痛で苦しんでいるそうな、あれだけの結果に対する相応の代償なのかもしれませんけれども。

同じスイングをずっと繰り返していれば、ダメージが蓄積する場所も大体同じ筈で、体のケアも必要ですが、それも対症療法に過ぎないですから、根本治療を考えるならば、異変を感じたならスイングを大胆に変えてしまう方が賢明かと思います。
梅ちゃんも、幸か不幸か精神論的な根性なんか微塵もなくて、違和感を感じたら直ぐにスイング変えようとしますから、慣れる迄に時間はかかるんですが、なんとか続けていられるし、これぞ怪我の功名なのか、スイングの引き出しは多い方だと思っています。

とはいえ、スイング改造なんてものは、その間の結果は悪くなるし、本当に目的地に到達できるのか手探りだしで、言うは易く行うは難しです。
中でも、スイングを一つの完成形(トップはこう、インパクトがこうで、フィニッシュはこうみたいな)として覚えてしまった時には、難易度が高くなってしまうのかと思われるんですが如何なものなんでしょう。
やはり、基本をマスターしてから自分なりにアレンジした方が、後々アレンジし直す時に、比較的に容易かと思うんです。
最初からバリエーション豊富になんかできないですが、基本さえ押さえておけば後は自由、にしておけば、そのうちに不思議とバリエーションも増やせる様になっていたりします。

完成形として覚えてそれを熟成させる、という考え方もあるんでしょうが、人間の体は年齢とともにスペックダウンしていくのは避けられないので(他人事じゃ無いです、シミジミ)、怪我だけではなくそれも見越しておいた方が後々楽かなと思います。
その昔は出来ていたけど今は無理、っていうスイングが実際にあるんですよね。こちが・ぁ・・、うずくまりそう。
梅ちゃんも、まだまだ飛距離を諦めてないので、そりゃぁ工夫しないと大変でおじゃりますです、はい。
森の虎さんにも、体に負担の少ないスイングを、田舎の梅ちゃんが伝授してあげようかにゃ(でも、その時には費用が発生しちゃうしにゃあ)

ジャンボも、御年70歳でレギュラーツアーに拘り続けて来たのは驚愕です。近年の成績には忸怩たる想いがあるであろうことは想像に難くないですが、それでも、「無事之名人也」と尊称しても差し支えないと思っています。
一般的には「心・技・体」と言われていることも、随分と昔から「体・心・技」と言ってたから、体が資本であるその重要性を理解していて、実践して来たのかと思います。

皆さんも、「無事之名人也(素人)」を目指しましょうよね。突然目覚めてプロになるのは言わずもがなの自由です、はい。


☆どこでもドアァ 2017/11/03

ゴルフを始めた頃からずっと疑問に感じていて、実は今でもよく分からないのが、スイング中のクラブヘッドと手の位置の相関関係と、シャフトの向き。
トップの位置では、シャフトが飛球線と平行になり、ダウンスイングではシャフトの傾きがボールと手を結んだ延長線と一致する。こんな感じですかね。これは、ヘッドの軌道優先な話ですね。
クラブヘッドの軌道と手の軌道が同一面であれば、これで納得できるんですが、そもそも、セットアップの時から腕とシャフトには角度がついてるんだから、それぞれの軌道が同一面の筈が無い。となると、どこかで必ず軌道の分岐点が存在する筈なんだけど、さて、それはどこ?

普通であれば、リストタ亜阿ンの時に、上手くごにょごにょするしかないんですが、例のTKB(タメと壁)では、インパクトの直前にリストタ亜阿ンしなけりゃいけない訳で、手の軌道が内側に入ってくるしかないから、フォローではそのまま手の軌道変化に従ってヘッドの軌道も内側にズレる。だから、アイアンなんかはターフの跡が内側に入ってきますよね。
こんなリストタ亜阿ンは、フォローの抜けが悪いのが気になるんですが、みなさんは如何思いますか。
特に、ダウンスイングでちょっと大回りしてしまいがちな場合は、フォローで左腕が邪魔になって、肘が引けてしまったりして、いませんか。フォローで肘を曲げるなって言われても、そもそもそうなりやすいスイングなんですけどもね。

大事な大事なインパクトゾ御緒尾ンで、そんな不安定要素を抱えてるから、トップの形がどうした、ダウンスイングでこうした、そんな決め事でも作っておかないと、インパクトのタイミングも合わせ難い、というところでしょうか。
TKBあんど栗鼠とタ亜阿ンは、ヘッドの軌道から考えれば、基本的にはフェード系であり、かつ、アイアン向きだと思いますが、これで、ドローを打とうとするなら、物理の法則と相談しなければなりませんね。

インパクトゾ御緒尾ンでは、できるだけ急激な挙動変化を抑えた、しずかちゃんで振りたいんです。
要するに、インパクトゾ御緒尾ンではドアスイング(の表現で良いのかな)になるんですが、ドアスイングなど愚の骨頂(言い過ぎか)みたいな扱いされてますけど、ドアスイングって、そんなに悪いですかね。切り返しからでは無いです。
インパクトゾ御緒尾ンの「ゾか御」の時点では、なるべくセットアップと近い状態に戻して、後は腕を脱力してクラブヘッドにお任せしてあげれば、クラブだって良ぃい仕事しますよぉ。「ゾ」の前で結果はほぼ決まってしまいますけどね。
インパクトゾ御緒尾ンでは余計な事をせずにお任せなんだから、言うなれば、「自動ドアスイング」、自分でもうっとりする様な素直な打球になる、かもしれません。

ただし、インパクトゾ御緒尾ンの前で、ヘッドの軌道と手の軌道がどの辺から分かれていくのか、シャフトの向きがどうなっていれば良いのか、実は何となくしか分かってなくて、この辺に不安を感じる方もいるかもしれませんね。
そもそも、全行程に基準形が必要なのかさえまだ分かっていなくて、継続して研究中ですが、現時点ではインパクトゾ御緒尾ンで不安定動作が無ければ良し、としています。

こうなって欲しい、こうなっている筈だ、そう願いたいのは人情でもありますが、そうはいっても、慣性の法則は人間の感性など忖度してくれませんので、突拍子もない事を考えても無駄が多くなってしまうだけですよね。
物理といっても、「なるべくしてなる」、因果関係がはっきりしていれば良いだけの話で、結果なんて事前動作で決まってしまうのに、前後の因果関係に矛盾がある様な話を、殊更声を大にして言われても、魚意魚意(ぅをいぅをい、であって御意御意ではござりませぬ)開いた口が塞がらないのです、が、巷では堂々と独り歩きしている様な気がします。

何処かに「どこでもドアァスイング」でもあったら、そりゃもう、全ホールホールインワンも、夢が現実に・・・

前回の記事の後に、ジャンボがツアー二度目のエージシュートを達成しました。でも、本人はその程度では満足していない様です。
ゴルフにとって「72」という数字は特別な意味を持っているので、きっと72歳まで現役を続けてくれるものと期待しています。


☆餅玉、必要ですか? 2017/11/28

スライス系は、曲がりすぎだけ注意していれば、軽いフェードは梅にゃんでも打てる(曲げる事自体は難しくないから)
フック系は、意図的に曲げた上に曲げ幅のコントロールも必要だから、やる事が一つ多いのがドローの難しさだと思う(おまけに曲げる事自体も難しい)

ドローは、余分なバックスピンを抑制できる効果が飛距離に寄与しているだけで、スイングスピードをコントロールできる範囲内で、同じ振り具合で振った場合には、フェードよりドローの方が飛ぶというだけの話ですね。

パーシモンの頃は、ヘッドにシャキッとした芯があって、芯を外すとフェースが開閉してしまうけど、同時にギア効果が働くからドロー・フェードを打ち分けられた。裏を返すと、どっちにも曲がる可能性を持っていて計算し辛いから、どうせなら、何時でもどっちか一方に曲げていた方が球筋が安定した。要するに、クラブの構造上の特性を上手く利用したのが餅玉だったと記憶してます。
目標より右に打ち出して返してくる、綺麗なドローボール打ってる人もいましたね。

今時のクラブは芯がボヤっとしてるけど、反面、少しぐらい芯を外したところでそんなに曲がらない、というか、曲がらない様に進化してきているんだから、クラブの特性を上手く利用したければ、左右に曲げる餅玉って必要ですか?
ギア効果を上手く使えないとした上で打球を曲げるには、ヘッドの軌道ぐらいしか残ってないんですが、体を中心に円運動をしている以上、フック系に必須のインサイドアウトも実際にはかなり難しいものですよね(特に1Wは最下点の先でインパクト)、後は、手首こねこねとか?(フォローの時に、腕がゴムゴムのーみたいな便利な体質の人は除く)
右を向いてインサイドアウト、それはもはや、ただのフックなんですけど。

ところで、素朴な疑問として、ヘッドの軌道でドローが打てるぐらいなら、真っすぐも打てる筈なんですよね。だったら、餅玉は真っすぐにしとけば?と、思う訳です。
真っすぐを打てなくてもフェードは打てます。
真っすぐを打てないのにドローが打てる、そんな人いるんですか?(最初からドローを打つ練習だけしていたとか?)
餅玉としてなら、真っすぐかフェード(消極的な選択として)、が現実的だと思います。チタンの時代にドローなどというものは、パーシモン時代の何かを引きずってるだけの様な気がしますけど。
真っすぐなのにバックスピンがかかり過ぎる場合は、実はフェード系になってしまってるだけで、真っすぐでもバックスピンを減らす事は可能だと思います。

無理をして餅玉を持とうとする事の一番の弊害は、練習場でも偶にゾーンに入ってしまう様な時があって、「あっこれだっ」でも、後になってみると「それじゃない」、まぁそれも楽しみの一つですし、そんな事を何度も繰り返しているうちに、何んとなく覚えていくものだと思うんですが、球筋に特定の拘りがあると、せっかくの「あっこれだっ」が偏ったものになってしまいそうだと思うんですが、如何でしょうか。
極端な例を引くと、スライス防止のために、セットアップの時に極端にフェースを左に向けてる人を見かけるんですが、良いスイングをしてしまった時に打球がどフックになっちゃったら、何が良いのか分かりませんよね。それとあまり変わらない様に思えるんです。

因みに、梅にゃんは、パーシモンからステンレス(当時はメタルって呼んでた)に切り替わった頃にゴルフを始めてるので、最初に買ったウッドは、まさしくパーシモンだったけど、打ち分けるなんて事を覚える前に直ぐにステンレスにしています。最初の頃は酷いどスライスで、当時からあまりリストタ亜阿ンが好きじゃなかったからなのか、ずっとドローは苦手です(プッシュアウトか、ただのフックにしかならない)
梅にゃんの餅玉?は、ど真っつぐで、ミスした時には殆どがスライス、偶に変な事を考えた時にはフックです。

いやっ、ドローの方がかっこいいじゃん、みたいな確固たる信念でもあるならば、それも立派な理由だとは思います。
付け加えておくと、既に自由自在に球筋をコントロールできる人は、この限りではありません。
また、1Wの話ですので、アイアンもこの限りではありません。


☆○○始めました 2018/02/06

当たるも八卦当たらぬも八卦、占いって信用してますか?、なんだか非科学的で何となくその場のノリで、みたいな時にしか需要無かったんですが、よくよく考えてみれば、人というのも自分に都合の良い答えに引き寄せられる傾向があって、それなら、吉も出れば凶も出る占いの方がある意味で公正だな、と最近見方がちょっと変わりまして。

どれだけ文明が進化しても、未知のことに恐怖心を覚えるのは致し方ありませんが、恐怖を感じた時こそ、さらに見よう、さらに知ろう、さらに分かろうとすることが重要で、恐怖から逃げ出したいあまりにただ目を逸らして安心感を得ようとすると、逆に魅入られてしまうのかもしれません。
「そんな大きな津波なんか来る筈ないよ」そんなただの言い訳をして、自然の驚異から目を逸らした結果が、あの大事故を引き起こしたのは明白です。

占いで吉が出たなら大胆に行動しても良いでしょうが、凶が出た時こそ運は天に任せて、恐怖から目を逸らしている事は無いか我が身を振り返る時とすれば、結果に憂うこともなく心安らかに前に進めるかな、と3000年以上前の商民族からヒントを貰っちゃいました。

冷やし中華始めました。いつから飲食店に、失礼、ななにゃん占いを始めました。
凶に価値を見いだそうとするのも、一つの使い方かなと思います。ただし、占い師はななにゃんですけど。

魅入られてしまうといえば、例えば、ティーグランドから右に大きな池が目に入ったりすると、見ない様にしようとすればする程、行け池になっちゃったりするんです。これはもう笑いどころですよ。
池に鴨の群れが浮かんでるな、ぐらいのただの風景として見れる様にでもなれれば良いんですが。
それよりも、絶対右に行かないスイングを練習するのが先なことは言うまでもありません。


☆飯床鳥 2018/03/14

船頭多くしてゴルファー地球を、打つ。

ゴルフであれ、仕事であれ、何はともあれ整理・分類・体系化しておくのは基本ですよね。
プロであっても、そうじゃなくても、皆が其々思い思いのスイング理論を語るのは、まぁ7200ヤードぐらい譲って(元に戻っちゃうか)結構ですが、まだまだ体系化されていないなと感じるところが、ゴルフも基本が確立していないと思う所以でして。

自分はそれで上手くできている、としても、それが全てでは無いんだから、一つの理論にしかなり得ない訳で、自分はこのやり方で「出来た」としか言いようが無い。
スイングにも色々ありますから、其々の長所と短所を解きほぐして、整理・分類(分ける)が出来て初めて、スイングとは何ぞや、が「分かった」と言える様になるんだと思います。

そこまで拘る?とお思いの方もいるやもしれませぬが(梅にゃんもこんなところは緩く無いの)、大きな落とし穴が目の前に、だって、人ってついつい良いとこ取り始めるじゃないですか。
「こうすればもっと飛ぶ」なんて、脂ののった美味しそうな刺身を目の前に置かれたら、見境なく「にゃいーん」ってかぶりついちゃう、のは昔の梅にゃんだったけど、誰でも食指が動くでしょ?
あっちの良いとこ、こっちの良いとこ、上手くかき集めたわいシメシメ、なんて浮かれてるのは本人ばかりなりで、だいたいは「なんか良さそう」って主観だけで集めてれば、物理的な因果関係が崩れて結局は短所ばかりが顕在化してしまう、何とも、骨折り損のくたびれ儲けご苦労様です。と、なってしまうのがオチですね。これを一言で表せば、「とっ散らかる」ってやつですか。
ただ棒っ切れ振り回してるだけなのに、スイング理論もこれで結構話題豊富で、とはいえ、其れと此れとは両立出来ないでしょ?みたいな事、其処此処にある様に感じてます。

不肖梅にゃんも、ドヤ顔出来る程分かってるとは言えませぬが、できるだけ整理・分類しようとはしています(その前に、このページを整理しろやって?、思いつくまま気の向くまま、それを読み解くのも何かの役に立てば良いけれど、です。
そんなこんなで、自分ではTKBなんてやらないんですが、それを避けて通っていては分類にならないですからね、浅い知識を絞り出してTKBの事も書いています。


☆1999年 夏 2018/04/14

コンピューターの2000年問題、という人間様が勝手に妄想を膨らませ舞い踊った秋(とき)から、早や19年。
何ですかそれ?状態の初耳の方のためにかいつまんで説明すると、当時のパソコンは年号を下2桁「99」年で表示している事が多かったから、2000年は「00」年となって1900年と誤認されてしまう。という妄想が妄想を呼び・・・、後はご随意にどうぞ。

結論から入ると、コンピューターは2進数、人間様が慣れ親しんでいる10進数で考えても筋違い。
そもそも論として、コンピューターに人間様が勝手に定義しただけの「日時」を特定できる筈など無く、コンピューターにできる事といえば経過時間を計測するだけ、例えれば巨大な桁のキッチンタイマー。
ただのタイマーであっても、始点(開始日時:1900年1月1日 0時0分0秒)を定義しておけば、現在の日時を知るには事足りるというだけのものです。
よって、コンピューターの「99」年というのは、始点から99年経過した事を意味しているだけで、そこに始点の日時を足す事によって現在の日時としているだけで、1999年を直接特定している訳ではない。
99年の次は100年、1900を足せば2000年と認識できる。という事ですね。

当時、実験もしてみました。
1.日付けを2000年に設定して(それができた時点で問題無いと思われますが)、ダミーファイルを作成・保存してファイルのタイムスタンプを確認。結果は100年で予想通り(DOSモードで立ち上げて確認)
2.いくら桁数が巨大といえども上限があるのは当然で、それを越えた時には1900年にタイムスリップしてしまうんですが、それは何時か?コンピューターにとって切りのいい32ビットカウンターと仮定して、2の32乗秒で何年分ぐらい計測できるのか(計算してみてくださいね)上限値近辺に日付を進めて確認した結果、上限値を越えた時点で1900年に戻った。
これで、概ね間違いは無いと思われます。
ただし、経過年が2桁から3桁に変わった事により不具合が発生する事も想定できますが、それはソフトのバグの問題であって、カウンターオーバーフローの様に、同じシステムであれば全てのコンピューターで同じ現象が発生するのとは次元が違いますね。
これはパソコンに限らないので、古いシステムを使い続けると稀にオーバーフローするかもしれませんが、そこまで使い続けたならむしろ祝ってあげたいくらいです(現時点でもまだ余裕あります)

当時は、結構な大騒ぎだったんですが、特に大過無く2000年の幕が開いた後の綺麗さっぱり感。あの喉元を通り過ぎる前と後の落差には、ある種の驚きを感じたと同時に強く印象に残っています。
コンピューターに詳しい人の方が少ないですから、から騒ぎは致し方ないとしても、せめて何故問題が起きなかったのか、の考察ぐらいはしないのかな〜。どこかではしていたかも知れませんが、聞いた事無いですけどね(検索すれば見つかるかもしれません)
かくしてまた一つ虚言が生まれたのであった。

いつの時代であっても、ある事で大騒ぎになる場合は、その現象の原理が分かっていないからであって、例えば、太古の人々にとっては、日食などが起きようものなら恐れおののいたかと思われますが、現代であれば専用の眼鏡が店頭に並ぶのは周知の事実です。
世間で大騒ぎになっている様な現象は、本質を外した、通り過ぎてしまえば忘れ去られる虚言候補が殆どだ、と思ってしまいます。

現代では、虚言の撒かれ具合の速度も速くなっている様に感じますが、世間にだって許容量の上限があるんではないかと思います。過去の歴史を振り返ってみると、大乱を繰り返しているのも虚言が疑心暗鬼を生み、それが人々の心から溢れ出た時と関係があるか否か、は、勿論単なる想像です。
とはいえ、昨今テレビ離れが囁かれているのも、虚言をばら撒き過ぎて視聴者の許容量の上限に近付いているのかもしれませんね。
視聴率という自身の損得に自己忖度している、としか見えない。

因みに、最近のパソコンでは8900年ぐらいまで設定できるんですが、カウンターの上限値が中途半端でよく分かりません。仮説としては、カウンター値を大幅に増やして、余裕ができた分を秒以下の計測に使っているのかな?余裕あり過ぎてどうでも良いです。
そういえば、始点の日時も変わっているみたいです(1900年に設定できない)まぁ特定の日時(1900年)を始点としなければいけない理屈も無いですからね。設計し直したついでに切りの良い値をどこか他のところに設定したんでしょうかね。


☆上が先?、それとも下が先? 2018/05/07

ゴルフの場合、体のパーツ的には腕力が一番弱いにもかかわらず腕の運動量が一番多いですよね。バックスイングでも、肩は90度ぐらい、腕の方は体の柔らかい人であれば180度近く回せますからね。
スイング自体は下半身主導であるのは論を俟たないですが、とは言え、弱い腕に合わせてあげないと、そりゃぁバランスが悪いというか、振り遅れになるだけですよ。
スイングを分類するにも、どこに視点を置くかによって結果は変わってくるんですが、やはり腕から先に主眼点を置いた方が無難でしょう。
概念的には、腕から先が主、下半身は従。
実際のスイングでは、主従関係が逆転する。ちょっとややこしいですか?

ダウンスイング中クラブヘッドは遅れて降りて来るんですが、インパクトに合わせてヘッドをリリースするというのは、状態が変化するという事で、慣性の法則からしても、何もしてないのに勝手に状態変化が起きる事は無いんですね。
普通は、無意識の内に体が反応してる筈で、それを意識的にやれば左サイドの壁とかになるんですが、体も動いてる、クラブヘッドにも加速度がついている時に状態を変化させるのは、これはこれで大変で、下半身が重要な役目を負っています。ましてや、ヘッドをリリースするタイミングを変えるとなれば、一言で済ませられる程単純では無いですね。
重要なのは、下半身の動きは上半身(腕から先は最優先)に合わせてあげる事であって、下半身の動きはこうだ、という様に始めから決めつけてしまわない事です。
下半身の動きが同じなのに上半身は違う、というのもできない事は無いですが、それが可能ならばどんなスイングにでもなり得てしまう訳で、窮屈な事を無理してやっても安定性に難がありますから、スイングを変えたいなら、やはり下半身も変えた方が良いと思います。

下半身と上半身、更に腕からクラブヘッド迄、全て調和している事が理想ですが、そのためにも下半身が重要ですね。
自分が、どんな風にクラブを振りたいか(腕から先)をある程度決めてから、その動きが無理なく更に力強く出来る様な下半身の動かし方を模索していく、それらを微調整しながら繰り返していく、こんな感じは如何でしょうか。

浅く掘り下げると、ヘッドをリリースするタイミングと、体重移動のタイミングは調和させてあげる必要があるんですが、リリースのタイミングを早めるとこれが思いの外難題で、慣れる迄は相当苦労するかもしれません。タイミングが合う様になれば、飛距離が劇的に伸びちゃうかもぉ(にゃんこは深くは掘れにゃいの、にゃんにゃん)
TKBであれば、体重移動のタイミングの調和を壁で代用できてしまうので、その意味であれば分かりやすいですね(極端にタイミング外すのは無しですよ)。ただし、リリースとインパクトのタイミングが近いので、そっちがまた難題になってきて・・・、何だか泣きたくなってくる。
どっちを選ぶかは、好みの問題です。

因みに、梅にゃんは練習場でも下半身の事から考えます。上半身、特に腕は他に比べて器用なんで後からでも何とかなっちゃうんですね(ゴルフ歴もそこそこ長いし)、だから、引き出しが多いと言ってるのも下半身の使い方(体重移動も含めて)の事です。


☆スイング中、何を見ていますか? 2018/07/04

「高く高く青い空に白い軌跡を描いて飛んで行く打球、行き着いた所は300ヤード先」

それは、白昼夢を見てますね。
ゴルファーというのは、バックスイングの時とダウンスイングでは別人格が現れるものです。はてさて、どっちが本当の自分でしょう?怖いですねぇー。

まぁ、冗談はさておき、スイング中はボールを見ていたいんですが、そうはいっても行き先が気になって、ついついヘッドアップしていませんか。そんな悩みを抱えているなら、こんな方法は如何でしょうか(たまには具体論もちょろちょろと)
ゴルフは、止まっているボールを打つから反射神経が使えなくて難しいと言われていますが、果敢にも反射神経を使おうという訳ですが、打つための反射神経ではないんですけどもね。

止まっているボールを意識しすぎるとスイングが固くなってくるから、ボールの辺りを漠然と見る様にしてるんですが、それより、インパクト直後の「飛び出して行くボール」を見るように意識していれば、反射神経が反応してくれるからヘッドアップ対策になる、という話ですが、さて、がっつりどっぷりヘッドアップしてしまっている場合は、また別の原因を見直してから、って話でもあります。
飛び出して行く瞬間さえ集中して見届けられれば、それからボールの行方を目で追いかけても問題ないと思いますけど、ただ、体を起こさない様にしてくださいね。首は回しても良いですけど、あっその首が、ぁっ(それは人生色々ということで)

慣れてくると、アプローチなんかであれば、打球を飛び出しから着地迄目で追える様になるし、練習場のボールでたまにあるハチマキボールなら、ボールがクルクルリンッと回転しながら飛んで行くのも見える様になります。不思議と距離感を合わせやすかったりもするんですが、打球の軌道を全行程憶えられるからかなぁ?
ドライバーでは一瞬しか見れないですが、これも慣れれば一瞬だけでも打球の方向性がなんとなく分かる様になります。その後であれば、自分の打球にウットリするのもこれぞゴルフの醍醐味ですから。打った後もボールのあった辺りを見続けろと言うのも(いつまで見てれば良いのやら)そりゃあ無粋ってもんでしょ。
因みに、これが見れれば、腕とクラブヘッドがインパクトゾーンを通り過ぎて行くのも、何となく見える筈だと思いますけど。

まずは、アプローチから試してみると、これでなかなか面白いもんです。


☆天道説 2019/09/25

無宗教を自称している筆者も、まさか信仰心が無い訳でもないんだけど、無宗教というのも思想信条が分かり辛いのが難点であり、それならば、自己紹介をしとくのも悪くはないかと思うんですが、そんなのはどうでも良さそうでもあるし。まぁ、適当に致してください。因みに、趣味とか嗜好とかを自己紹介する予定はありません。

筆者は単純な自然信仰で、天罰は恐れているし、天を欺くことはできない、と信じている。特に教義も無く、至って原始的ですね。
大自然を始め宇宙もそうだし、物事は必ず、自ずと然るべき姿に落ち着くものだ。という事も含めて自然としています。

万物の創造主は自然であり、人間が生み出したものは例えそれが神という存在であったとしても、ひれ伏す事はありませんね。
太古の人々であれば、神羅万象を恐れたんだと思いますが、日常生活における自然現象は概ね解明されてしまっている現代においては、恐れるものが変わっていても当然であり、現代版自然信仰とでも言うべきものだとは思うんですが。

人類は、地球に恩返しをしてから滅びるのが天命であって、これは、天が定めた道であり人間が抗うことなどできない。
これを「天道説」と勝手に命名していますが、お天道様とは、また少し違う意味です。

人類の最期は決まっていても、そこに至る道筋は人類に委ねられていて、それ迄は放し飼いにされている様なものだから(なんと懐の深い)、人類にしかできない恩返しぐらいの宿命が無いと、人類の存在意義が他に見当たらないんですがね。

これは、個人であっても変わりはなく、人生の最期は絶対だけれども、そこに至る道筋は其々自由に人生を全うすれば良いのと同じじゃないかと思うんですが。

どんな恩返しをするのかも人類に委ねられている、様でいて、実は予め決められているのかも知れませんが、まぁ、ジタバタと自ら選択している様で、実は自然に転がされているだけの様でもあるし、共存共栄を夢見るのは人間の勝手な思い込みで、自然というものは時に過酷なものの様な気もする。そもそも、環境問題にしろ、人間が住みやすい所に勝手に住み着いただけで、地球にとっては預かり知らないことだからね。

自然教にも本当は教義もあるんですよ。何分、相手が自然なだけに人間には到底理解出来ない訳です(分からないのを良いことに現代人は我儘放題している様な気もしますが)
太古の人々にとっては、少しでも自然とお近づきになりたくて、その表れが原始の宗教というものになっていったのかな、と想像してみたりする。

神が、不可解な自然と人間の橋渡し役をしているだけなら良いんですが、いつの間にやら、神が自然を超えてしまったり、自然の存在が忘れ去られてしまっていたなら釈然としないんですよね。無宗教だから、その辺の機微も詳しくは知らないんですが。

自然信仰者としては、自然こそが最上位であり、その教義は謎のままの方が自由があって好きですけどね(教義があったら、逆に胡散臭い)
自然というものは、偉大かつ、永遠に不可思議なものであって、だからこそ人間稼業にも面白さがあるというものです。

やっぱり、どうでも良さそうな話になったけど、簡潔に言えば、筆者がひれ伏すのは自然と時々にゃんこさん、です。


☆大成を望む者にとって小成は躓きに過ぎない 2019/10/21

これに異論がある人もいないかと思いますが、まぁ、ある人がいても先に進んでしまいますが。
「大器は晩成す」とも言うし、ここでは人間の器という、分かった様な分かっていない様な観念から考えてみたいと思います。

先ずは、残念な話から始めますが、人間の器の大小は持って生まれたものであって終生変わる事は無い、と思うんですよ。
「人の器というものは、一度壊してから作り直すことによって大きくなる」という説もあるんですが、これには懐疑的で、どうにも都合が良すぎて不自然さを感じてしまうのです。

一度壊してから再生する様な例を考えてみると、筆者が何を勘違いしたのか政治家にでもなろうとしたなら、今のままの器では絶対に無理なのは明白なのでそんなことも必要なのかと思いますが、だってねぇ、政治家に必要な器の形とは五次元なのか、と思えるくらい異質に感じるからなぁ。

仮に、作り直す事ができて形は変えられたとしても、大きさ迄は変えられないだろう。むしろ、小さくなってしまうのではないか、と思う訳です。人為的なものより元からの器の方が、大きさという点では優れていると考えるのが自然でしょう。作り直す度にどんどん小さくなってしまいそうですよね。

やはり大成は見果てぬ夢なのか。と、このまま淋しい話で終わるほど悲観的な人間でもないので、次は、一筋の光を感じる「生ビール十分の一説」をしてみましょう。

生ビールの注ぎ方が下手くそで、泡が消えたら正味は十分の一しか入っていなかった。という勝手に名付けた説ですが、要するに、人間が生来持っている器というものはずっと大きいんだけれども、本人の使い方が下手くそで使い切れていないだけだ、そんな人が殆どなのではないかと思う訳です。

私の取扱説明書は何処。

それにしても、似た様な(成功への道みたいな)格言が山程あるというのも、人類の苦闘の跡を窺う事ができて少しだけ安心する。
自分自身の取説はどこを探しても売ってないですからね。自分で作るしかないし、自分で完成させる事ができた人が大成するんでしょうかね。

昔の様な、職業選択の自由など無かった時代であれば(丁稚奉公とか)、個人の職業適正なんか二の次で、人間を職業に合わせざるを得なかった訳で、それは人の器だって一度壊して作り直すぐらいの荒業も必要だったのかもしれませんが、まぁ、全体のレベルも低かったから相対的には大きくなり易かったんでしょう。それでも、どうにも合わなかった人もいた筈なんですがね。

現代は、全体の教育レベルも高くなっているし職業選択の自由もあるから、今更牧歌的な事をしていると、適正のある人が後からどんどん入ってくれば軽くぶっちぎられるのは明白な現実で、自分の器の形(適正)に合っている事を選ばなければ、勝負も厳しい時代になって来ているなと思う訳です。

ところが、自分自身の取説が無いから、実は自分の器の形を自分でもはっきり分かっていなかったりするんですね。そもそも、自分が好きな事とかやりたい事と、自分の器の形が合っているとは限らない訳だし。
それで、たまたま合ってしまった人は良いけれど、迷走してしまったり時に暴走してしまったり、悩みは昔から変わらないんでしょうな。

「人と鉄は時代が下がると品も下がる」こんな説もあるんですが(鉄界隈での話なんですかね)、お説ごもっともでございます。
品が下がるから先人の知恵を借りる必要があるのか、先人の知恵を頼ってばかりいるから品が下がってしまうのか、それとも単純な自然現象なのかは分かりません。

現代文明は先人の知恵の結集であって、現代社会がその上に成り立ってる現実を考えれば、先人の知恵を有り難く利用させていただかなければ、そりゃもう、にっちもさっちも行きゃしません。

自分の器に、先人の知恵を注いで貰うだけでも、まあまあ一端(いっぱし)の社会人として通用できるし、更に努力を重ねれば、といっても先人の知恵が基になっていることには変わり無いんだけれども、この人間社会では大手を振って歩ける訳です。
ついつい、自分の実力と勘違いしてしまうのは致し方ないとしても、これに味を占めて、先人の知恵やら他人の経験やらばかりを注いでいれば(楽な事この上無し)、さて、何事かの成功を収める事ができたとしても、その成功が終生続くのかは筆者には分かりかねるところです。
ただ、あまりにも他人様を頼りすぎてしまえば「器を貸して人生を取られる」、果たしてこれを成功と呼べるものやら。

とかくこの世は甘い罠に満ちている。いや、甘い罠によって成り立っているといっても言い過ぎでは無いでしょう。
目の前にそれらしいご馳走を並べられた時に、自分が躓いている事に気づけるか。人生を取られていないと言い切れるのか。

大成を望むあらば、小成に惑わさるるなかれ(少し作り直してみた、器の事じゃなくて表現を)

やはり、人生は無明長夜を行くが如し。甘ーい罠には目もくれず、自分の器には、生涯自分で注いで(自分で道を切り拓いて)行くしか無いんでしょう。分かっちゃいるけど、もう少し甘めの格言は無いのかなあ。
何はともあれ、人生そのものが自分探しの旅みたいなものだから、まぁ、凡人の筆者は腹を括って気長に行くべし。


☆究めろ「文明道」をや、そして畏れよ 2019/11/29

「文明は神棚に宿らず、神棚にて進化を遂げること能わず」

文明とは何ぞや、そんな高尚な話を展開するつもりは無く、ましてや、甘くてふわふわなあれについて語る趣旨でも無いんですが。
文明とは、日進月歩するものであり、その歩みを止めてしまったものを文明と呼ぶ謂われなど無い。などと思っているんですよ。

文明というものも、現代人にとっては所詮は棚牡丹ですよ。先人の苦闘の跡そのものなんだから世界中の誰であろうとそれに変わりはない。
なかでも、その基礎までも棚牡丹であれば、有り難いことこの上無し。

ただ、有り難がる思いが募り過ぎたのか、それとも何らかの意図があるのかは分かりませんが、「神棚に奉り、ありがたや、ありがたやー、ぱんぱんっ」としてしまうと、その有り難さの実体を見失ってしまうんではないかと思うんです。
「元が棚から来たんだから、棚に戻すと座りが良いんだよ」
「まあ、そう言われてみればそうか、・・・そんな話じゃないわ」

先に奉った人達が、自分たちが権威として君臨したい底意が透けて見えていたり。余程心配性なのか、結界を張って(規制をこさえて)独占しようとしたり。もぞもぞと這い上がり、自ら神棚に鎮座ましましてしまう者迄いたり。

文明を何と心得ているのか、個人の所有物ではない文明を我がものとしてしまうと、まずその文明は歩みを止めてしまう。その様な行為は、文明そのものへの冒涜であり、かつ、神を悪用した神への冒涜でもあり、この世にこれ以上無い二重の大罪である、と言わざるをえない。

それでも、人の世の法では検断されないかもしれない。しかし、天知る地知る人知る我知る。ただ、天による審判は天に委ねるしか人には成す術もないんですが。

筆者は、先述の通り無宗教ですから、神頼みをしたことはありません。そういう施設に行けばそれらしい所作ぐらいはしますが、それだけです。
筆者だって、神棚にお供えをし、拝礼し、神に仕えるぐらいのことはできますよ、多分。それぐらいのことは何の自慢にもならないんですがね。

問題は、窮地に立たされた時、それでも神の教えを信じ、その教えを守り通せるのか、そこに自信が無いんですね。でも、これが特別なこととも思えない。

人類が、これまでも数々の過ちを犯して来たことは事実であり、日頃、敬虔な宗教人であってさえも、やはり、窮地では神の教えに背き、神を裏切ってしまったのではないか。もっとも、そうとでも解釈しなければ、神の教えに従ったから道を誤った、という理屈が成立してしまうから、そんなものは文明人としてありえない。

人は、神(宗教)によって救われることもあるでしょう。しかし、掬われてしまうことだってある筈であり、過去の尋常ではない掬われ方から考えてみれば、神は畏れるべきものでもあり、現代人は、神に対する畏れが少し足りない様に思える。

筆者の場合は、神をも畏れぬ不逞の輩という訳ではなく(少しは不埒かもですが)、神を畏れるあまり、触らぬ神に祟りなし、それで、神とは距離を置いているというのが実情ですね。

同時に、畏れるべきは文明とて同じだと思うんですがね。

文明の進化には、有名、無名を問わず、あらゆる人が関わっているもので(その母体の社会経済を搾取に耐えながら支えているのは結局は庶民だから)、その重さと奥深さには計り知れないものがあるのは当然のこと。
悲しいかな、痛みも伴えば、代償も支払いながら進化して来たんだろうと、容易に想像できる。

文明とは、その社会の歴史そのものであり、畏敬の念を抱いて接するのが文明人の取るべき態度だと思うんですよ。
歴史の洗礼を受けなかった棚牡丹式の場合、その重さに鈍感になりがちであり、そこが危うさを孕んでいるところでもあり、棚牡丹の限界とは言いませんが、越えがたき壁なんでしょうかね。その高さはオリンポス山(火星の方の)並みかも。

進化の歴史を経験している人々であっても、その文明が故の過ちを犯してしまっているのは、歴史が長すぎてその重さを実感できなかったからなのか、その原因は分かりませんが、だとしたら、棚牡丹式であれば、尚更錯覚してしまうのも致し方ないのかもしれません。
だとしても、文明による過ちは文明でしか匡せないものだから、文明に関わる以上、少なくとも、その歩みを止めてしまう様な行為は歴史への冒涜であり、非文明人であると言わざるをえないでしょう。

しかし、何でもかんでも文明を一括りにするのも、これもまた拙速で、お役御免となり伝統となったものであれば、神棚に奉るのも結構なことだと思うんですよ。
散々利用するだけ利用して、後はボロ雑巾でも捨てるが如く見向きもしないなら、それもまた、畏敬の念に欠けていることには変わりないでしょう。
お役御免となった様なものでも、無碍に扱えずに奉ってしまうのは、むしろ、日本人(ならではなのかどうかは分かりませんが)の美徳であるとも思いますけれど。それでも、偶に棚卸しでもしてみれば、新鮮な発見があるかもしれませんね。

ただし、お役御免なのか、まだ現役なのかは、人間が判断する様な種類のものではなく、歴史に委ねるしか無いと思うんですが、そこに、人間の欲が絡むと本質を見失ってしまうんですな。
勝手に神棚に奉って、実(まこと)しやかな威厳と不可侵性なんぞを軽ーく演出したりする、演者もその腕はなかなかよろし。
真に畏れるべきは、文明そのものであり、その文明を我利我欲で我がものとしようと企む不逞の輩を恐れ怯えて、それに倣って何も考えずにひれ伏してしまえば、それも同罪ですからね。

とはいえ、人の世には、背に腹は代えられぬ、ということがあるのも分かる(そりゃそうですね)。この世は、信念を貫くか背に腹かの二択でできている、と言っても過言ではないでしょう。もっとも、背に腹を強要してしまえば、背に腹スメント(なんつって)になってしまいますがね。
ただし、背に腹も所詮は問題の先送りに過ぎないということは、心の片隅であったとしても留めておくべきでしょう。

古くは、徳川幕府が何故倒れたのか?。あれも、こと文明からの観点で見れば、幕府だけではなく諸藩も含めた、我利我欲から権威にしがみつき、背に腹による利権を選択した者達による、動かざること山の如く微動だにしなかった幕藩体制という文明もどきが、進化の歩みを止めなかった西洋文明の荒波に飲み込まれた、と筆者などには見えるんですがね。

その後も、似たような失敗は山ほど繰り返していて、その例は、殆ど一山いくらの叩き売り状態なのは周知の通りです。
文明の進化に対する代償を支払わなかったツケを、利子込み(暴利かと思えるようなケースもあった様な)で支払わされる羽目になった後世の人々は堪ったものでは無い。

文明との距離感は人其々であって良いと思いますが、完全拒否するのは現状ではほぼ無理でしょう。
だとしたら、畏敬の念を抱きつつ進化の道を歩むしかないじゃないですか。四の五の言って立ち止まっているばかりでは、また荒波に飲み込まれてしまうだけですよ。歴史とは、情け容赦無い峻厳なものです。時には過ちを犯してしまうかもしれないけれど、それを叡智によって匡して行く。永久にいたちごっこだったとしても、それが人間の宿命と諦めるしかない、と思うんですがね。

と、ここで終わってしまうと、「ありがたや、ありがたやー」から「おそろしや、おそろしやー」になっただけのことなので、もう少し踏み込んでみますか(軽くね)


文明道を究めるということは、己を究めることでもある。だから「道」を付けているんですがね。

文明との距離感は人其々自由であって良いし、ほっといてもどうせ誰かが進化させてしまうだろうから、置いてけぼりにされるのが嫌なら己も精進しなければ、誰にも文句言えませんよね。
文明の進化の歩みを止めてさえしまわなければ、まさか、祟りはないでしょう。と、思いたいところですが、如何せん欲深い人間が相手だけに、それが荒波となって覆い被さることもある訳です。

ところで、今更念を押すのもどうかとは思うけれど、この話は、文明の利器をサクサクと使いこなすという類の話でないことは承知済みとの前提で書いていますけど、これは蛇足ですよね。

「学問とは、みずからが問い、みずからが答えるものだ。他人に問うから、おのれを失うのさ」
宮城谷 昌光 著「孟嘗君」より

これこそ、人が道を誤ってしまう原因の核心を突いてる様に思うんですが、神でさえ裏切ってしまうのは、己を失っている状態に他ならないですよね。
ところが、棚牡丹式の場合、その要の基礎の部分を他人に問うてしまっているのが、どうにもならない背に腹なところなんですな。時代が下がれば人の品も下がるのは当然ですよ。

他人から答えを教えて貰えれば速成には役立つとしても、その代償として、何がしかは失ってしまう。それが、往々にして己であるんでしょう。それを、重大な事と捉えるか、些細な事と片付けてしまうのか、それどころか、当然の権利の如く一顧だにしないか。これが、大きな分岐点の様に思える。
己を失っていながら己を究めろとは、自分で言っておきながら、これまたとんでもない矛盾があるというか、無理難題というか、これも精神論か。

上の物語には、さらに続きがあって(ずっと続くんだけど)、「無から、とりかかれ」、と主人公は心に決めるんですが、失った己を多少なりとも取り戻すには、これまでの知恵を一旦捨てて、その上で、みずからが問い、みずからが答える(勿論、自分でもやってみる)ぐらいしか筆者にも他に方法は思いつきませんね。

とはいえ、この「みずからが問い、みずからが答える」というのも、実は万能ではないんですね。
あれやこれやと考えてみるに、どうやら、その伝家の宝刀を抜かれたら誰も太刀打ちできないであろう、最強の武器がある様です。

「ご都合主義」
自らに何を問うても、都合の良い答えしか出てこなければ、もうお手上げです。そりゃぁ、台風?だって神にもなりますわな。
でも、人は多かれ少なかれご都合主義になってしまうことがあるもので、背に腹だって、都合の良い答えを選んだ結果ですからね。
後は、己を失ってしまうことに、自覚を持てるか持てないかぐらいですかね。

結局、目的は己を失わないことであり、その方法論は人其々であって良いんでしょう。
筆者などは、この研究室の冒頭でも「答えは自分で出すところです」などとぬけぬけと書いている通り、みずからが問い、みずからが答える方が性に合ってるだけで、限定するつもりはありません。
神に祈りを捧げるのも、何十年も続けていれば何がしかは見えてくるんでしょうけれど、そっちの道については部外者なので余計な事は言えませんが。
他に、どんな方法があるのか、それも、自問自答するしか無いですかね。

ところで、これは状況が少し違うんですが、一つの案があるんですね。
「下手な考え休むに似たり」、この場合の下手な考えとは、窮地に立たされた時に普段やってもいないこと。
自問自答にしろ、神に祈りを捧げるにしても、常日頃から続けていないと使いものにはならないでしょう。

日常でも、思いつきで何かを始めたところで、それをものにする迄には、試行錯誤、紆余曲折を経るのは当然の事。
尻に火が着いて切羽詰まっている時に、藁にも縋る思いであの手この手と、思いつきで手を出してしまうのはこれも人情ですが、それが、窮地から死地へと迷い込んでしまう一つの要因なのではないかと、そうであるならば、そこはグッと堪えて藁には手を出さない分別も身に付けたいところです。
勿論、常日頃からあらゆる事態を想定して続けている何かは必要だし、窮地である程それを信じる方が、結果としては得策なのかもしれません、が保証はできません。
仮に、思いつきが上手くいったとしても、万に一つの僥倖だったと心得ずに味を占めていると、後に、「おそろしや、おそろしや、おそろしやー(利子付き)」な事態が待ち受けているのかもしれませんよ。

信長公の桶狭間の奇襲戦法も、ただの思いつきか閃きなのかは本人のみぞ知るとしても、何の裏付けもない作戦だった訳でもない。

尾張のうつけ者と揶揄されながらも野山を駆け回っていたのは、将来戦の地になるであろう地理、地形の把握が実戦で役に立っているし、実地を駆け回る事そのものが訓練にもなっている。
「遅れる者は捨て置くぞ」という電光石火の進撃も、信長公がいきなり駆け出して、周りの者が後からバラバラになりながら必死に付いて行くのは、普段通りの光景であって何ら特別な事でも無い。

とは言え、伸るか反るかの大勝負には違いなく、これを最後に二度と一か八かの戦いはしていないんだから、案外、地味にコツコツと事を進めていたんですね。惜しむらくは、一向宗徒にブチ切れてしまったのが運の尽きだったのか。

地味にコツコツとなどと言うと、我が意を得たり、と安心する向きもあるかも知れませんが、現実はそんなに簡単ではない訳で。
地味にコツコツと己を究められるか、地味にコツコツと己を失ってしまうのか、地味にコツコツと流されるままに流されるのか、道は一つで無いのが奥深い。


己を究めるなら、己を信じる?
自分を奮い立たせる場合にはそんなことも必要かとも思うけど、世の中そんなに単純でもない。

せっかくだから、桶狭間の戦いを例に考えてみると、切れ者の殿様であれば、お座敷育ちであっても奇襲の決断はできると思う。
ところが、迂闊にも軍議にでもかけてしまえば、利け者風情の家臣に「殿、彼我の戦力差をお考えあそばしませ」とか何とか言い出されたら軍議が真っ二つに割れて、そうこうしているうちに機を逃してしまうんでしょうな。
失敗を繰り返して憶えていくものでもあるけれど、乾坤一擲の時であれば取り返しがつかない事になってしまう。

ここで、筆者が殿や家臣であったと仮定して考えてみると、殿の立場であれば奇襲を決断できると思う。ところが、家臣の立場であって突然言われたら、止める側に回ってしまう様な気もする。人とは実に曖昧なものだ。これって筆者だけですか?

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とも言うし、「故事を知る事は己の至らなさを知る事である」とも言われている。

己の至らなさというものは、例え故事を知ったところで己を疑ってみなければ知りえないと思える。
複雑怪奇な人の世にあれば、自分を信じているだけなら気づかなかった事も、先ずは己を疑ってみれば、居ながらにして物の見方も広がるかもしれませんね。
間違っても、自分だけは信じて他人ばかり疑っていれば、その先行きは容易に想像ついてしまいますけど。

自分を信じる一本道を突き進んでいるだけなら、やがてご都合主義になりそうな気がするし、とはいえ、自分を疑ってばかりでも心が折れそうだし。
己のことは信じる時もあれば、疑う時もまたあり、ですかね。

自分がこれと決めた「道」は信じ抜かなければ、自分が空しくなってしまうだけですがね。

だんだん言葉に細かくなってきたついでに。

極める、という言葉もあるんですが、個人的にはあまり好きではないんです。
「吉も極まれば凶となる」とも言うし、極めた先に何となく危うさを感じてしまう。思考だけならまだしもなんですけどね。

究める、これは生涯辿り着けない前提の様でもあるけれど、何故か惹かれてしまうんですよ。
究める自体も究める必要がありそうですが、今回はここまで。


☆今こそ祈りを捧げる時 2021/06/08

先の東日本大震災に見舞われた時には、誰も見たこともない、想像もしえなかった自然の圧倒的な破壊力に慄き、世界中の多くの方々が被災者に対し祈りを捧げて下さりました。
現在は、コロナウィルスという静かな脅威が世界中を覆い、今日現在、累計で約373万人の方が犠牲となられてしまいました。あらためて自然の無情さを感じずにはいられません。
世界中の、予期せず命を落とされてしまった方々のご冥福をお祈りいたします。

さて、昨年開催予定であったオリンピック・パラリンピック東京大会も、震災からの復興五輪を掲げていましたが、この悲惨なパンデミックと時期が重なってしまったのも、天から授けられた奇縁なのかもしれません。
平和の祭典であるオリンピック・パラリンピックを通じて、犠牲となられてしまった方々に祈りを捧げ、鎮魂の大会とする事が生かされた者の務めではないでしょうか。
大会の開催については、まだ賛否両論揺れているようですが、例え、再延期、中止の事態となった場合であっても、日本の地から世界に向けて祈りを捧げる事を忘れてはならないと思っております。